つらつら日暮らし

諦忍律師『盆供施餓鬼問弁』を学ぶ4(令和4年度八月盆⑥)

今年の盂蘭盆会に関する記事は、江戸時代中期に活動した真言宗系の学僧・諦忍妙竜律師(1705~1786)の『盆供施餓鬼問弁』(明和2年[1765]版)を学んでみたい。なお、この文献については、当方も版本を持っていて、それを参照しつつ記事を書いてみたいと思っている。

〇問、盆供は自恣の僧を供ずる筈なるに、その本意を失ひ、今に至りては偏へに亡霊の祭りのやうになりたるは、何れの時よりか起こるや。
 答、旧唐書に曰、大暦元年丙午七月壬午、帝、盂蘭盆会を禁中に作す、高祖大宗已下七聖の位を設け、巨幡を建て、帝号を以て其の上に標し、大廟より迎て、内道場に入る、是の日、百僚を光順門に立仗して、迎并導従す、是れより歳ごとに以て常と為す〈云云〉、此時より祭りのやうに成りたるなり。
    『盆供施餓鬼問弁』2丁表~裏、カナをかなにし見易く改める


まず、こちらの内容は、中国で行われた盂蘭盆会の様子を伝えるものであり、部分的には【中国の盂蘭盆会の始まり(令和4年度八月盆②)】でも参照している。それで、上記の問答はこの中国で行われていた盂蘭盆会の様子から、いわゆる僧衆を供養した内容から、亡霊への祭りへと変化した経緯について尋ねているのである。

そこで、諦忍律師は唐の代宗の時代に行われた供養が、亡霊への供養の最初だとしているのだが、ここで少し疑問がある。それは、【日本の盂蘭盆会の始まり(令和4年度八月盆①)】で紹介した、日本の事績についてである。『日本書紀』を見る限り、唐の代宗よりも遡る、日本の斉明天皇の時代に、既に盂蘭盆会が先祖の供養のために行われている。

これもまた、「亡霊の祭り」だと思うのだが、この辺はどうなのだろうか?

さて、ここで気付くことがあった。そもそも、『盆供施餓鬼問弁』の成立は、冒頭で書いている通り、明和2年(1765)である。これに対して、この時代、『日本書紀』はどう扱われていたのだろうか?ただし、『古事記』は本居宣長(1730~1801)による『古事記伝』(1798年脱稿とされる。刊行は19世紀に入ってから)は諦忍律師の在世時には成立していない。

一方で『日本書紀』は成立当初から、宮中で講義されるなどしていたようなので、諦忍律師も見る可能性があったと思うのだが、何故か、中国の事例をもって証左としている。それが気になったのだが、とはいえ、日本でも中国でも、先祖の供養として位置付けられた盂蘭盆会、やはり大切に修行しておきたいところである。

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