ところで、今日8月10日まで京都の六道珍皇寺で行われている「六道まいり」という行事について、先の文献に記載を見出したので、学んでおきたい。
○問、今時京都にては七月十日に珍皇寺へ参り六道の鐘を撞、聖霊迎と号して、帰るさに、槙の葉を買て捧げ返り、或は迎火・送火と号して大ひに火をたき、或は十六日の朝、聖霊送りと号して閻魔王の堂へ必ず参詣するを常とす。田舎も亦多く尓り。是如何なることぞや。
答、推古帝の時始りし盆祭は唯壇上に供物を備へて亡霊に供養するのみ。但此一事ばかりなり。今時種々の事あるは、皆是末の世の愚夫愚婦の無知妄作なり。何ぞ歯牙に掛るに足らんや。
『盆供施餓鬼問弁』5丁表~裏、カナをかなにし句読点を付すなど見易く改める
のっけから、かなり厳しい諦忍律師のご見解を披露することとなってしまったが、先に挙げた「六道まいり」などについて、バッサリ切り捨てている様子が分かる。この辺は、諦忍律師の意図を正しく見ていく必要があるが、やはり日本で行われた盆供養の「本義」をどこに置いているか、という観点を容れる必要があるのだろう。
そして、上記の通り、推古天皇の時代に於ける盆供養、それは既にアップした【日本の盂蘭盆会の始まり(令和4年度八月盆①)】で見た通り、『日本書紀』の記述になるが、同文献では儀礼の詳細については、詳しくは分からない。強いて言えば、「設斎」をどう理解するか、ということだろう。
個人的には、僧侶への供養であって、壇上の供物という話にはならないと思われる。もちろん、諦忍律師の教えについて、解釈の仕方によっては、後代に色々と供養の方法が加わった可能性まで否定は出来ないものか・・・と思っていたら、本書で諦忍律師は『先代旧事本紀』を典拠に、日本で最初の盆供養について論じていて(本書2丁裏~3丁裏)、それだと確かに、上記の通りの内容であった。
ところで、上記の問いには、後半に「或は十六日の朝、聖霊送りと号して閻魔王の堂へ必ず参詣するを常とす」とあるが、これについても、現在の六道珍皇寺では「ゑんま詣で」として行っているとのことである。こちらもまた、江戸時代にも良く知られた行事だったということなのだろう。
ついでに、「田舎」でも、同様の儀礼があったとしているが、閻魔堂などが設置された地域では、同様の風習が行われていたのだろう。調べてみると興味深いが、当方の地域ではおよそ聞かないかな。当方は、「十三仏信仰」は盛んだと思うのだが、地蔵信仰などは余り強くないように感じている。
なお、上記のように諦忍律師はバッサリ切り捨ててしまったが、個人的にはこういう行事は、仏教の行事の豊かさを示すものとして、大いに行っていただきたいと思っている。
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