つらつら日暮らし

今日は「八大人覚」を学んでみる

理由の詳細は書かないが、今日は個人的に「八大人覚」を学んでみる日としている。それで、「八大人覚」について、一部宗派などでは、『仏垂般涅槃略説教誡経』中の説示を理由に、釈尊の遺誡のように捉えている場合もあるが、実際には他の場面でも用いられているので、今日はその例を見ておきたい。

 云何が八生法なるや。謂わく八大人覚なり。
 道、当に少欲なるべし、多欲は道に非ず。
 道、当に知足なるべし、厭うこと無きは道に非ず。
 道、当に閑静なるべし、衆を楽うは道に非ず。
 道、当に自守すべし、戯笑するは道に非ず。
 道、当に精進すべし、懈怠するは道に非ず。
 道、当に専念すべし、多忘するは道に非ず。
 道、当に定意すべし、乱意は道に非ず。
 道、当に智慧あるべし、愚痴は道に非ず。
    『長阿含経』巻9


まずは、上記の教えを見ておきたい。気になるのは、「八生法」という表現なのだが、どうも主要の漢訳仏典では上記箇所にしか出ていない言句のようであるため、詳細不明。南方仏教のパーリ仏典と比較可能なら、意味が分かるかもしれないけど、今日はそんな事をしている暇が無いので、割愛。

でも、「八生法」は「八大人覚」だと言っているので、それで良いような気がする。あ、「八大人覚」で調べてみると、大乗『大般涅槃経』で何箇所かその語句が出てくるのだけれど、例えば「所謂、少欲是れ道なり、多欲は道に非ず。広説すれば是の如き八大人覚なり」(巻6「如来性品第四之三」)などとなっており、8項目が出ているわけではない。それどころか、「八大人覚」を含めた体系を拡大したと思われる「菩薩具足成就十法」などという教えも見える。これは、巻27「師子吼菩薩品第十一之一」に見られるものである。後述する。

さて、まずは『長阿含経』の方を見ていこう。小欲・知足は或る意味定番の組み合わせなので、もう説明も要らないと思う。まぁ、実践するのは困難ではあるが・・・いつも思うが、いわゆるミニマリストとは小欲・知足に契うのだろうか?退転することなき生き方にまで昇華すれば、問題無いか?

それから、「閑静」というのは、『遺教経』では「楽寂静(寂静を楽[ねが]う)」に当たる教えで、集団の中にいることを望まない生き方である。それから、「自守」は、『遺教経』では直接対応する項目は無いようであるが、ただし、「戯笑」に似ている「戯論」のことが第8番目の「不戯論」に出ているので、それを見ていくべきだろう。「自守」というのは、自らの態度を守り、他者への嘲りなどを持たないことを意味するようである。

続く「精進」は仏道の成就に向かって努力すること、「専念」は良く集中して物事に対することである。この2つは対応関係にある。そう考えると、『遺教経』の「八大人覚」は、順番として少しおかしいことが分かる。上記の通り、少欲・知足、閑静・自守、精進・専念、そして定意・智慧という組み合わせが妥当なはずで、『遺教経』は第3番目の「楽寂静」と対応するはずの「不戯論」が第8番目になっているので、理解が困難なのである。よって、「智慧」まで行った上で、その後「不戯論」に話が及ぶという状況となる。

しかし、『長阿含経』の並びなら、スッと理解出来るわけである。

なお、「定意・智慧」は、いわゆる禅定(定学)・智慧(慧学)に該当するもので、これも余計な説明は要らないと思う。

さて、先ほど話をすっ飛ばした大乗『大般涅槃経』の「菩薩具足成就十法」を見ておきたい。

 善男子、菩薩、十法を具足成就す。仏性を見ると雖も、而も明了せず。
 云何が十と為すや。
 一には少欲、
 二には知足、
 三には寂静、
 四には精進、
 五には正念、
 六には正定、
 七には正慧、
 八には解脱、
 九には讃歎解脱、
 十には大涅槃を以て衆生を教化す。
    『大般涅槃経』巻27「師子吼菩薩品第十一之一」


・・・あれ?「不戯論」が無い(;゜ロ゜)

その代わり、「解脱」「讃歎解脱」「以大涅槃教化衆生」が入って、合計「十法」となる。ただし、これはこれで先ほど指摘した各項目の2つずつの対応関係は成り立っていて、「正慧を具うる者は、一切の煩悩・諸結を遠離す、是れを解脱と名づく」とあって、智慧と解脱との関係を指摘している。まぁ、そもそも、「十法」の場合、少欲から徐々に進展するように説くので、結果として全てが関連しているとは言えるが、それでも、8項目までは学び手の菩薩自身の心境で、9・10項目は菩薩と世間との関わりを説くので、少し異なって理解すべきである。

つまり、「八大人覚」のみとして見れば、「不戯論」の代わりに「解脱」が入っても良いような印象である。そうやって他の仏典も見ると「八大人覚」や類似した「八大人念」では、第8番目に何を入れるかで右往左往しており、智慧を得た上で、どうするかを考えていたようである。ただ、個人的には『長阿含経』の説き方が分かりやすいような気がするという話で、今回の記事を終えておきたい。

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