仏、文殊師利に告げたまわく、「汝、声聞戒を見るや」。
答えて曰わく、「見る」。
仏言わく、「汝、云何が見るや」。
文殊師利言わく、「我、凡夫見を作さず聖人見を作さず、学見を作さず無学見を作さず、大見を作さず小見を作さず、調伏見を作さず不調伏見を作さず、見に非ず不見に非ず」。
『文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経』巻上
何故、敢えて本経で「声聞戒」が取り沙汰されているのかは分からない。引用文の前段に「浄修梵行」について論じられているため、仏道修行者に於ける修行観全体を聞いた可能性はあるが、それでも、いきなり「声聞戒」が出てくる理由は分からない。とはいえ、「声聞戒」は「菩薩戒」に対応して作られた語であると思われるが、同じ般若系の経典である『勝天王般若波羅蜜経』にも「菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行じて、善く一切威儀戒行を知る。善く声聞戒・辟支仏戒・菩薩戒を学び、既に戒行を修す」(巻2「法界品第三」)とあるから、三乗と分けつつ、その何れにも戒があるという立場があったのだろう。
それで、仏から文殊菩薩に対して尋ねたのは、「声聞戒を見るかどうか?」ということであった。それに対して、文殊は「見る」と答えた。つまり、文殊として、菩薩のみの世界ではなくて、声聞戒という下敷について肯定的に考えていたことを意味するといえるのではなかろうか。
そのため、仏は更に、「声聞戒をどのように見たのか?」と尋ねたが、「凡夫見・聖人見、学見・無学見(阿羅漢か、阿羅漢以外か)、大見・小見(大乗か小乗か)、調伏見・不調伏見、見・不見」といった、様々な分別的知見を破した先を示そうとしている。つまり、諸知見を破した上で「見」を示しているのだが、この「見」は、おそらくは『般若心経』でも説かれる「照見」なのだとは思うのだが、問題はその上で「声聞戒」がどのように位置付けられるか、であると思う。
その場合、「照見」とは「皆空」へと通ずる道であるから、「声聞戒」もまた空観によって脱落し、後に「菩薩戒」へと到る何らかの改編を可能とする余地を見出した可能性を指摘しておきたい。
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