それで、例年のことだが、今日という日には「敬老」について一言書くことにしている。いきなりだが、以下の言葉を紹介しておきたい。
第二
ぢぢばばを、
たいせつにせよ。
文学社編輯所編『尋常修身訓』巻2(文学社・明治28年)2丁裏
いわゆる戦前の「修身」の教科書であるが、尋常小学校用の『尋常修身訓』を。「第二 敬老」の項目を見てみたわけである。ところで、上記項目に続くページには、そのやり方を促す絵が入っていて、以下の説明が入っている。
しんぞう、
かね、
ぢぢ
ばば
を
たいせつ
にす。
前傾同著、3丁表
ここでいう「しんぞう」「かね」は、この教科書の登場人物であり、ここでは「孫」の扱いである。ただ、この2ページだけで、どうやって説明するのだろうか?とか思っていたら、教師用の指導書も存在していたようである。
第二 敬老
『ぢぢばばを、たいせつにせよ。』
祖父とは、父母の父をいひ、祖母とは、父母の母ををいふ。故に祖父祖母に対しては、亦父母に対する心を以て事ふべし、且祖父祖母は、其齢最高きものなれば、大切に奉養することを怠るべからず。
新蔵、かねといへる二人の兄妹あり、祖父を佐兵衛といひ、早く父母を失ひて、祖父祖母に育てられたり。二人は、祖父祖母に事へて、能く孝を尽し、且其家貧しき上に、祖父の齢七十に及び、最早働くわざに堪えざりければ、新蔵は幼きながらも、村の役夫に雇はれ、かねは家にて塵紙をすき、共に僅ばかりの賃金を得て、祖父祖母を養へしにぞ、人皆其孝行を感じけり。
文学社編輯所編『尋常修身訓』「教師用第1篇」(文学社・明治29年)20~21頁
これは、上記のような物語をもって、児童に指導をしていたようである。先に挙げた話だけでは分からなかったのだが、新蔵・かねの兄妹は、幼くして両親を失い、祖父母に育てられていたとのことであるが、孝養を尽くし、わずかではあるが、家に収入も入れていたようである。現代なら、児童労働などで問題になりそうではある。もちろん、児童労働の問題とは、当人の人権が侵害される可能性が高いことに加え、教育機会などが奪われることで、貧困が連鎖することである。
だからこそ、社会保障で対応していくべきなのだが、さすがに戦前はそこまでの保障はされなかったようである(関係する研究論文もあるようで)。
・・・ここまで書いて、そういえば「敬老」についての記事だったことを思い出した。先に挙げた教師用への教科書では、続いて「教授上の注意」についても記載されるが、そちらも基本は、父母の如く祖父母を敬うように促すことを示すのみなので、文章は割愛する。それから、この件について、もう少し時代が下ると、以下のような内容の指摘も見えてくる。
第十章 敬老と尊祖
敬老と尊祖とは、我が国体の基礎とも見るべき家族主義と離るべからざる関係がある。子孫の方から見ると、其祖父母などは、死なれると直ちに先祖になられるのであるから、敬老は即ち尊祖に外ならぬのである。近来社会の急激なる変化と共に、敬老の風は次第に廃れてゆく傾があるが、我が国の歴史や社会の体制から観ると、忽にすべからざること廃してはならぬことである。
高島平三郎『家庭心理講話』(洛陽堂・大正9年)197頁
敬老は国体の基礎たる「家族主義」とは離れないというが、この辺はいわゆる「国体論」との関係を見ていくべきなのだろうか。関連する研究論文なども見ると、家族主義を題材に、国家・国体を説明する事例は一般的に見られたようで、上記もその説明の事例として理解されるべきかと思われる。
そうなると、戦前は「敬老」という指導もまた、国体護持への繋がりとなるわけで、それを理由に批判する人もいそうだが、敬老という考えが悪いとは言い切れないから、難しいところなのである。それに、ご高齢の皆さまがゆったりと安心して暮らせる社会であるくらい、余裕がある日本社会であって欲しい、という素朴な願いもある。
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