つらつら日暮らし

釈尊降誕説話への批判(拝啓 平田篤胤先生10)

前回の記事は、「篤胤の釈迦族論」を論じたのだが、今回は、「釈尊降誕説話への批判」と題して、いわゆる「摩耶夫人の右脇から生まれた」とか、「天上天下唯我独尊と言った」に見るような、まさしく非合理的内容で語られる釈尊降誕説話に対して、篤胤がどう評したのかを見ておきたい。

扨この者生るゝ時に母の右の脇から生れ出、うまれると直にみづから七足あるいて、右手を挙げ天を指し左手を下げ地をさし師子吼をたしたと云ことでござる。この師子吼と云は何のこともなく産声の事と見へるでござる。然るをまた此師子吼に文句をつけて、我於一切天人之中最尊最勝。無量生死於今尽矣。此生利益一切天人と吼たともあり。又一説には天上天下唯我独尊と吼たともあるでござる。この生ると直にあるいたり手を指上たり何かして吼た事は、何の経にもいつてあるが、実にこんなことのあつたかもしれません。なぜと云に此奴邪しまなる道を始め、夫をかく世に説き弘めたる程の変な奴故、その生れる時もこの位の変はありそうなものでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』19頁、漢字を現在通用のものに改める


実際に、釈尊伝を見てみても、様々な描かれ方をしているけれども、その原型みたいなものは理解出来る。そこで、篤胤が問題にしているのは、釈尊が母親である摩耶夫人の右脇から生まれたこと、その直後に七歩歩いて師子吼したことなどである。ところで、その師子吼の内容には、「天上天下唯我独尊」もあれば、「、我於一切天人之中最尊最勝。無量生死於今尽矣。此生利益一切天人」であったともしている。

そこで、篤胤はまず、こういった変異的な誕生自体を、もしかしたら事実かもしれないと述べている。理由は、それをもって、只者ではないという印象を与え、要は、通常の人間という位置付けをしないことを目指したためである。ただ、後の文脈を見てみると、更にこの誕生説話を別様に解釈している。

やつぱり偽でござる。なぜかやうに偽つたものじやといふに、釈迦ほどの仏が凡人とおなじやうに陰門といふ不浄な所から生れたと云へば、尊く思はれぬから脇腹から生れたと、事を神妙にせんが為に偽つたことでござる。すでに経文にも、摩耶が腹にやどらんとするまへに、陰門は不浄な処じやによつて、脇から生れやうと観じて託胎したと云てござる。右申す通り変物の生れたること故、かやうな変のあるまひでもなけれども右のわけもあり、この外にも諸々の仏経に尻口の合ぬ嘘ばかりついてあるによつて、誠のことをも実とは思はれぬでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』19~20頁、漢字を現在通用のものに改める


そこで、篤胤の論法としては、やはりここで、説話自体を否定している。ここでは摩耶夫人の右脇から生まれた話を、インドの女性観などを理由(陰門=性器を不浄と見る)に挙げているのだが、他にも、クシャトリア自体の位置付けも考慮しなければなるまい。原人プルシャの上半身をもってクシャトリアは生じたともされるので、女性の上半身から生じると記録されるわけである。それで、篤胤は摩耶夫人が脇から生まれることを観じて託胎したとするが、この典拠はどこなのだろうか?

少し調べてみたが、具体的な典拠は見付からなかった(特に、不浄と絡めて論じている箇所の特定は困難だった)ものの、母の右脇から入胎し、そして誕生したという経緯は、『法苑珠林』巻8「呈祥部第四」「降胎部第五」で続けて論じられるところなのと、篤胤の参照文献の1つには、『法苑珠林』があると思われるので、この辺を指摘しておきたい。

 又其うぶ声に、天上天下唯我独尊といつたの、或は我於一切天人之中、最尊最勝云々いつたなどと云ふも、みな釈迦が成道出山の道を弘むるときに妄言したる説の尻を結ばんが為に後の出家どもの偽り云つた事でござる。是は追々聞るゝうちに、其化の皮のあらはれてわかることでござる。
 偖此生れたる日は因果経には四月〈本ノママ〉八日じやとありますが、仏所行讃経といふには二月〈本ノママ〉八日と云ふことでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』20頁、漢字を現在通用のものに改める


それから、「釈尊の産声」についてなのだが、上記の通り、「天上天下唯我独尊」及び「我於一切天人之中、最尊最勝」といったという論じ方をしている。前者については、大変に多くの文献で見られるが、後者については幾つかの文献が該当することまでは分かったが、『法苑珠林』巻9「招福部第五」にもこの一節が見られることが分かったので、典拠は同文献であろう。

また、釈尊の降誕日について、北伝の各経論・史伝等で記載が区々であることは、良く知られたことであったが、篤胤は『因果経』『仏所行讃』を挙げている。ただし、ここでテキストの方で鷲尾順敬先生が「本ノママ」と註釈していることに注目したい。実は、ここでも篤胤は、それぞれの『因果経(過去現在因果経)』や馬鳴尊者『仏所行讃』を直接見ているわけではない可能性がある。

瑞応経に云く、太子、四月八日の夜、明星出づる時に生まるる。又、仏行讃に云く、三月八日に於いて菩薩、右脇より生まるる。過去現在因果経に云く、二月八日、夫人、毘藍尼園に往き、無憂華を見て、右手を挙げて摘まんとするに、右脇より出づ。
    『法苑珠林』巻9「校量部第八」


以上の通りで、釈尊の降誕日には複数の説が北伝にもあり、『法苑珠林』では上記のようにまとめようとしたが、勿論、まとめ切れてはいない。ただし、四月八日説は『瑞応経(太子瑞応本起経)』とされ、『仏所行讃』は三月八日説、『因果経』は二月八日説であるという。とはいえ、篤胤は四月八日を『因果経』とし、『仏所行讃』を二月八日だとしている。ほぼ確実に『法苑珠林』に依ったであろうに、その引用に問題があるので、鷲尾先生は先の通りの指摘をしたのだろうと思われる。

そして、この話にはオチが付く。実は『仏所行讃』については「四月八日」説なのである。ついでに、『因果経』は『法苑珠林』の通り「二月八日」生まれとし、「四月八日」は入胎の日だったのである。おそらく、その日に話すことを典拠などで確認をしたか、或いは若い頃に見て憶えていたことを講演したのであろう篤胤だが、どこかで記憶違いをしたのである。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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