つらつら日暮らし

「檀信徒喪儀法」「授戒」項渉典集

拙僧つらつら鑑みるに、得度作法・授戒作法を一通り見た上で得た結論としては、個人的には以前より「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、何故、安名授与が無いのか?という疑問に対し、それは総授戒運動もあった宗門としては、生前に戒名を受けていることを前提にしているのでは?という仮説をお話ししてきたのだが、どうも違う印象を得た。

それは、「安名授与」を含む得度作法というのは、明朝禅による影響の可能性があるということを、【『寿昌清規』に見る「沙弥得度」について】で指摘した。その上で、現在の得度作法は、おそらくはその明朝禅の影響を受けた逆水洞流禅師の得度作法を下敷きにしている可能性があり、古儀とは言い切れない可能性があると指摘したのである。

それで、現状の「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、その典拠を一々考えることにより、出典を明らかにし、何故現在の檀信徒喪儀法に安名授与が無いのかを説明したいと思っているのである。それで、現在の「檀信徒喪儀法」については、昭和27年に改訂された『昭和改訂曹洞宗行持軌範』に於いて採用された差定が基本となっている。ただし、その差定が一体どこから来たのかがよく分からない。

一応、追跡可能な情報を見てみると、1975年刊行の茂木無文老師『葬儀・法事の仕方―曹洞宗行持の仕方叢書10』(国書刊行会、近年再刊された)では、どうも関東地方の方法とは言いつつ、ほぼ現代と同じような差定が掲載されている。よって、どこかの地域などで用いられていたものであることは疑いない。

なお、明治時代に入って、当時の「曹洞宗務局」が校閲した差定集・回向集は、民間の出版社からも続々刊行されているのだが、その差定には「授戒」が見えず、いわゆる念誦と引導がその内容となっている。よって、本来、「授戒」作法は、室内に関わることであり、更に厳密にいえば喪儀の準備段階で行うものだったと推定される。ただし、宗門の室内伝承は、江戸時代の初めの頃で既に、混乱した状況であったことは、当時の学僧達の言葉を見れば明らかであり、その後も一部では恢復し、復古したとしても、全体にそれを認められるかどうかが分からず、よって、宗門主導で何らかの「形」を決める必要があったものと思われ、その結果が現行の差定に繋がるものだったということになるのだろう。

前置きはこれくらいにして、現状の「授戒」は以下の流れである(なお、『昭和改訂』版も参照しており、もし、語句が変わっている場合には、その旨指摘する)。

・懺悔 懺悔文読誦
・三帰戒授与
・三聚浄戒授与
・十重禁戒授与


この場合の「授与」は、本来の得度作法などでは「能く持つや否や」を三問三答して、受者本人の意志を確認するが、喪儀法では既に受者は故人であるため、導師(戒師)が一方的に読み上げるだけとなっている。

まず、「授戒」で一番問題となるのは、冒頭でいきなり、「夫れ新帰元某甲〈信士・信女〉」と始まることであるが、「“授戒”冒頭ではまだ授戒が終わっていないから、戒名を読むべきではない」という見解を主張する者がいる。それは、戒名や安名授与などと密接に関わった問題であり、簡単に論じて良い問題では無い、ということを拙僧も理解はした。

それで、冒頭で「懺悔」に入っていることから、この一節は瑩山紹瑾禅師『出家授戒略作法』が原型になっていると推定される。なお、分かりやすくするために、現行の「喪儀法」も漢文で表記している。

【略作法】本師或戒師授云、欲求帰戒、先当懺悔罪根、懺悔雖有二儀両懺、先仏有所成就懺悔文、罪障尽消滅、随我語可誦之。
【喪儀法】夫新帰元某甲〈信士・信女〉、欲求帰戒、先当懺悔、雖有二儀両懺、有先仏所護持、曩祖所伝来懺悔文、罪障尽消滅、可随吾語唱之。


しかし、微妙に異なっていることが気になるわけである。そうなると、もう一つ参照しておきたいのが、江戸時代の学僧・逆水洞流が編んだ得度作法の『剃度直授菩薩戒儀軌』である。

【逆水版】夫欲求帰戒、先当懺悔、雖有二儀両懺、有先仏所成就懺悔文、罪障尽消滅、随我語可唱之。

なお、黄泉無着『永平小清規翼』に於ける「沙弥得度」項は、ほぼ「逆水版」と同じであった。それで、比べてみると、現行の「喪儀法」は、明らかに「逆水版」に近いけれども、「有先仏所護持、曩祖所伝来懺悔文」という言い方は、明らかに相違している。また、末尾の懺悔文読誦についての指示も、現行の作法は「逆水版」に近い。以前、「罪障尽消滅」について、「業不亡」の観点から批判し、その際には瑩山禅師の文献の問題であるかのような先行研究があったように記憶しているが、上記内容を見ていくと、いきなり太祖にまで行くのはどうかと思う。結局、歴祖がそれで良いと思ってきたからこそ、懺悔の功徳は、「罪障尽消滅」と説かれてきたのだろう。

それで、「有先仏所護持、曩祖所伝来懺悔文」については、「此是千仏之所護持、曩祖之所伝来也」という『仏祖正伝菩薩戒作法』の言い回しが近いとは思うが、『菩薩戒作法』の場合には懺悔に関する指摘ではなく、「三帰戒」のことをそう称しているのであり、これはやや強引に懺悔文を強調しようとした流れと見るべきだろうか。

また、懺悔文そのものだが、勿論、原出典は『華厳経』「普賢行願品」の偈になるけれども、現状の宗門のそれは、『教授戒文』になると思われる。微細な所だが、「身口意」という言い方から、そう推定できる(『華厳経』は「身語意」)。

更に、三帰戒に入る時の言い回しだけれども、こちらも上記と同じように比較してみたい。なお、『教授戒文』と『諸回向清規』巻5「授戒之品次」及び「逆水版」も予め並べておく。

【教授文】既依仏祖証明、浄滌身口意、得大清浄。是則懺悔力也。次応帰依仏法僧。三宝有三種功徳。所謂、一体三宝・現前三宝・住持三宝也。
【略作法】已浄除身口意三業、得大清浄。次可奉帰依仏法僧三宝。三宝有三種功徳、所謂、一体・現前・住持三種也。一帰依時、諸功徳円成。
【諸回向】已浄除身口意三業得大清浄。次可奉帰依仏法僧三宝。三宝有三種功徳。所謂一体三宝。現前三宝。住持三宝是也。一帰依時。諸功徳円成。
【逆水版】汝已浄除身口意三業、得大清浄。次可奉帰依仏法僧三宝。三宝有三種功徳、所謂、一体三宝・現前三宝・住持三宝是也。一帰依時、諸功徳円成。
【喪儀法】已懺悔身口意三業、得大清浄。次応帰依仏法僧三宝。三宝有三種功徳。所謂、一体三宝・現前三宝・住持三宝是也。一帰依時、三種功徳尽皆円成。


非常に微妙な結果となった。まず、懺悔の功徳については、伝統的には「身口意の三業を浄除して」であるが、現行は「浄除」が「懺悔」になっている。もしかすると、この辺はやや人権問題との関連もあるのかもしれないと思ったが、『昭和改訂』でも同様であるため、これはもう、そういう伝承を参照したとしか理解出来ないかと思われる。

それで、この箇所については、『略作法』「逆水版」からの影響と思われるのが「得大清浄」までで、「次に応帰依仏法僧」以降については、『教授戒文』「逆水版」(特に後者か?)に近いことが分かるのだが、全く一致するわけではない。『諸回向』と「逆水版」が字句的にはやや近い点もある。

続いて「三帰依文」にも論点があり、それは「帰依仏無上尊」(現行の喪儀法)についてである。『教授戒文』『略作法』ともに「帰依仏両足尊」となっている。「両足尊」というのは、2本足歩行の生物の中で最も貴いというくらいの意味であるが、確かに「無上尊」の方が分かりやすいかと思う。そして、「逆水版」が「無上尊」であるから、そちらの影響であろう。

それから、三聚浄戒に続く文章の相違も見逃すことは出来ない。なお、ここでは『菩薩戒作法』も参照しておく。

【菩薩戒】如来至尊等正覚、是我導師、我今帰依。従今已後、称仏為師、更不帰依邪魔外道等。大慈大悲大哀愍故〈三返〉。既捨邪帰正、応受三聚浄戒。
【教授文】称帰依仏法僧宝時、得諸仏大戒也。称仏而為師、不為師余道也。有三聚戒。
【略作法】已捨邪帰正了、如来至真等正覚是我導師、従今已後称仏為師、不帰依余邪魔外道、大慈大悲大哀愍故。三説。(※以下五戒に続き、三聚浄戒へは行かない)
【逆水版】受三帰戒已如斯。従今已後。如来至尊等正覚、是汝大師也、更不帰依邪魔外道等。此是千仏之所護持、曩祖之所伝来也。我今授汝。汝能護持。次有三聚浄戒。瓔珞三聚戒(※これは比較のために入れてあるものか)。
【喪儀法】授与帰戒如此。自今以後。如来至尊等正覚、是新帰元某甲〈信士・信女〉大師、更不帰依余道(『昭和改訂』では「邪魔外道」)。南無大慈大悲大哀愍故。既帰依仏法僧三宝。次応授三聚浄戒。


一応、現行の「喪儀法」は、全体的に「逆水版」に似ているという判断は難しい。様子としては『略作法』にも近いが、部分的には「逆水版」にも近いという感じになる。

それから、「三聚浄戒」の言い回しだが、『菩薩戒作法』『略作法』「逆水版」を踏襲しているとして良い。

また、「十重禁戒」の言い回しだが、意外なことに、これまで主として参照してきたどれとも似ていない。多くは末尾の「○○戒」の「戒」が無いのである。無論、無くても戒師が唱えていた可能性もあるけれども、違うものは違う。それで、ここでは黄泉無着『小清規翼』が近いことが分かった。

それから、「十六条戒」を授けた際の文言は以下の通りである。また、ここでは特に『正法眼蔵』「受戒」巻も参照しておきたい。

【菩薩戒】上来十六条仏戒、謂三帰・三聚浄戒・十重禁戒。此十六条戒、千仏之所護持、曩祖之所伝来。我今授汝。汝従今身至仏身、是十六条事、能持否。〈三問。〉能持。〈三答。〉是事如是持。
【受戒巻】上来、三帰・三聚清浄戒・十重禁戒、是諸仏之所受持。汝従今身至仏身、此十六支戒、能持否。答云、能持〈三問三答〉。是事如是持。
【略作法】此中有十六條事、所謂、三帰・三聚・十重禁戒・十六條仏戒、従今身至仏身、能持也不。三説如先。
【逆水版】上来十六條仏戒、三帰・三聚浄戒・十重禁戒。此是千仏之所護持、曩祖之所伝来也。我今授汝。汝従今身到仏身、是事能持否〈三問〉。能持〈三答〉。是事如是護持。
【喪儀法】上来、三帰・三聚浄戒・十重禁戒。此是先仏之所護持、曩祖之所伝来。我今授汝。汝従今身至仏身、此事能護持。


ここでは意外な結果となった。どうも、言い回しを厳密に見ていくと、現行の「喪儀法」は、「受戒」巻と「逆水版」を合揉したような言い回しから、三問三答を抜いたような形になっていることが分かる。

それから、「血脈授与」及び『梵網経』「衆生受仏戒」偈読誦については、『菩薩戒作法』が基本になっているとは思うが、受者による蓮華台登座まで含む『菩薩戒作法』とは相違点が大きすぎる(他の作法は「血脈授与」そのものがない)。そうなると、やはり比較すべきは、「逆水版」及び黄泉無着『小清規翼』しかないといえる。ただし、そちらも現状のようには唱える文言が整備されておらず、「逆水版」を見てみると「次授血脈唱云」とあって、「衆生受仏戒」偈読誦と続いている。

そうなると、現行の「喪儀法」に於ける「血脈授与」は、従来の似たようなお唱えから、新たに作ったと見るのが自然であるようにも思う。

そして、最後まで悩ましいのは、「南無大慈大悲哀愍摂受」については、懺法関係の資料に幾つか見られるようだが、授戒作法では見えない。ということは、本来は懺悔法についているべきものだったのか?よって、何故「喪儀法」の末尾にこれを入れたのかはよく分からない。無論、推測できることは、通常の授戒・得度作法では「衆生受仏戒」偈が終わった後で、「回向文」が入るけれども、「喪儀法」にはそれがない。よって、極めて簡潔にそれを示したものとも推定できる。

以上、推定の箇所が多いけれども、現行の「喪儀法」に於ける授戒作法の出典について、ほぼ明らかにした。結論としては、現行の得度作法同様、逆水洞流禅師の影響が大きいといえるけれども、厳密にそう言い切れない面もあるという曖昧なものとなった。

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