でも、今から2600年以上前の話なわけである。完全に神話の世界だなぁとか思っていたら、釈尊も似たような時代だった。でも、我々は釈尊の時代を偲ぶことは、想像力を豊かにして行うことが出来るが、果たして、「建国」を偲んだりすることって出来るのだろうか?一回、ちゃんと『日本書紀』読んでみるべきかな。
ところで、建国という場合、我々なら当然に「日本国」を建てるという話だが、この「日本国」とは一体何なのか?いや、もちろん、世界地図の中でどの辺に位置していて、というようなことは分かる。ただ、かつて日本について論じた三宅雪嶺(1860~1945)も西田幾多郎(1870~1945)も、それぞれ日本を「客観的」に論じられることに重きを置いている。その背景には、三宅がいうようなことがあったためである。
今代の知識は幻像的をこれ尚ばずして、説明的、論証的を主とす。いわんや自ら知るを明という。自ら知らざる者何をもって他を知らん。
講談社学術文庫『真善美日本人』14頁
ここから考えれば、それ以前の知識を用いた日本論は、多分に精神主義的・主観的な観点で論じられており、いわゆる国学を中心とした発想であったことが理解出来る。しかし、三宅がその運動に参画している政教社の「国粋主義」は、むしろ自然科学的知識を元に日本を論じようとする思想であった。更に、西田もこのように述べている。
日本文化の如何なるものかを明にするには、我々は我国の歴史を顧みて制度文物について研究するの外はない。〈中略〉我々は自己を客観の鏡に映すことによつて自己を知り、客観的に自己を知ることによつて客観的に働き得るのである。
『新編西田幾多郎全集』第9巻、6~7頁
実際のところ、日本を明らかにする方法論としては、見た目、三宅も西田も大差はない。ただし、内容としては大きな違いがある。それは、三宅は単純に日本と諸外国とを比較して、日本の特殊性を明らかにしていくことを行い、その上で、文化的特性をもって世界に範たる日本国の自覚を獲得していくべきだと主張した。しかし、西田は更に三宅よりも一段と先に行こうとしたのである。
単に特殊性を明にすると云ふだけでは足りない。〈中略〉それでは物と物とを比較して、物の特殊性を明にするとは如何にすることであるか。我々は普通に物と物を並べて、その異同を明にするのが所謂分類法である。併しかゝる外面的な方法では、往々鯨は魚であると云ふ如き誤に陥り易い。
西田氏前掲同著、7頁
西田は、日本自らを知ることについて、分類法を用いるのでは無くて、別の方法を用いるべきであるという。それが絶対的な基準となる「一般者」を明らかにし、更に発展した日本のあり方を示す必要があると考えていた。よって、これは単純な客観性というものではない。それを超えた、絶対的な客観性を下にした思考法・研究法だといえる。では、西田は日本の役割を何だと思っているのだろうか?
我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによつて、世界に貢献せなければならない。〈中略〉云ふまでもなく歴史は事実の世界であり、力の世界である。種が行動の主体とならなければならない。
西田氏前掲同著、53頁
我々は矛盾的自己同一的世界の自己形成の原理を見出すことが肝心だと述べている。これは、西田博士が注意されたように、単純に自己が自己で無くなることではなく、むしろ、自己否定によってかえって生命的に発展をする歴史を力強く生み出すとされた。だからこそ、「日本独自」という観点も、国学的発想であれば、初めから日本にあったオリジナリティばかりを目指す原理主義に陥りがちだが、西田が指摘するのは、日本には日本人自身に固有の物の見方や考え方があり、中国や西洋などの文化などを取り入れながら「日本人自身の物を創造し来たつたと思ふ」(59頁)という。
その意味では、「建国」とは、その都度の創造になるといえる。単なるコピーであれば、人真似になるが、しかし、日本人は必ずそこに、もたらされた文物と一体となって、よりその物の本質に迫り、新たに創造せざるを得ない民族である。文化も物も、新たに創造されていくのが日本だといえる。だからこそ、仏教でも、誰が何と言おうと、妻帯して寺院に於いて先祖供養していく新たな仏教を生み出した。これを「堕落」というのは簡単だが、それは先に挙げた非創造的な原理主義に過ぎない。
多分に日本社会には、妻帯する僧侶を基本とした仏教の姿が適していた。先祖供養を中心とした葬式仏教もまた、適していた。近代の一時には、そういう創造性に背を向けて、原理を求めるのが流行っていたので、それによる日本仏教批判、葬式仏教批判が起きたが、いい加減本来の日本仏教の姿を肯定し、その中で安寧を求めていくべきだといえる。そして、そのような日本仏教の姿が、かえって世界各地の仏教の姿をまた変えていくかもしれない。それこそが、矛盾的自己同一的な創造性の真意であると拙僧は思慮する。
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