下巻の歎仏の差定は、近年の添加のゆへに誤なり。歎仏は檗派の東渡より始て日本に行ふ。瑩規にあるべき道理なし。
面山瑞方禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻3「観音懺法附差定考訂」
これは、面山禅師が「差定」という言葉自体を考訂する際に指摘された一文である。これをそのまま受け取ると、日本には江戸時代に黄檗宗が来るまで「歎仏」が無かった、という話になってしまうように思う。それはそうなのだろうか?例えば、「歎仏」という用語だけであれば、ここで面山禅師が否定した『瑩規(瑩山清規)』にも見える。
正月一日。粥時は必ず五味粥なり。歎仏は如常。
禅林寺本『瑩山清規』「年中行事」、訓読は拙僧
この通りである。他にもいわゆる年中・月中行事(瑩山禅師は左記のように表記。いわゆる行持ではない)に「歎仏」の語を見出すことが出来るため、行っていたように思う。なお、面山禅師は『瑩山清規』について、後代の改変を疑うのだが、拙僧が参照しているのは、禅林寺本であるため、改変は一応最小限の筈である。それに、道元禅師『赴粥飯法』にも、「歎仏」の語が出る。
(十仏名・首座施食終わって)更に歎仏せざるなり。
このようになっている。よって、食事作法には「歎仏」がある場合があったといえる。そうなると、別のことを考える必要があって、それは、この場合の「歎仏」を、いわゆる「歎仏会」という法要であったということになろうか。「歎仏」という時は、「仏を讃歎する」の意味で、仏名などを読み上げること、礼拝することなどを指しているはずだから、そんなことは日常的に行っていたといって良い。
また、面山禅師も「差定」の考訂を見ておきたい。
歎仏式〈今改〉唱礼法
是れは、元朝の撰にて、元の帝師、発思巴の弟子の、金剛上師をも加う。この本、我門に用うべからず。ただ、三十五仏と五十三仏は、両経の別説なり。仏説の唱礼なれば、式を如法にして行うべし。余、改述する唱礼法、今、別本あり。印版す。
『洞上僧堂清規行法鈔』巻5
面山禅師が述べている「歎仏」とは、中国の元代に作られた『歎仏式』のことを指しているようである。そして、これが黄檗宗によって日本にもたらされ、いわゆる「古規」ではないという理由で、排除されたということになろうか。その上で、同作法を批判して『洞上唱礼法』を編まれたというのが、上記の内容である。
ただ、『瑩山清規』には一応「歎仏」はあったため、いわゆる「歎仏式」では無い別の形式があったということなのだろう。後は、「歎仏」は授戒会に導入され、いわゆる懺悔法の一端を担ったが、それらを含めた広い考察は、また別の機会に行いたい。
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