『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節です。
寒山がいうには「氷と水には隔てがない。生死の2つもともに美である」と。生死の二法は、執着すべきではない。虚妄の因縁だからである。幻化の如く起きては滅するものであるからだ。
まさに、眼病の眼を恣にして、空華に過ぎない生死を憂い喜ぶことがあってはならない。
白楽天がいうには、「この身をどうして恋うことがあろうか。永遠の時間に煩悩の根源となるものであるのに。
この身をどうして厭うことがあろうか。ひとえに集まった虚空の塵でしかないのに」と。
誠に、愛さず厭わずというのは、自ずから先賢の跡を慕って、今世も身を安らかにするのである。国に仕え、家を保とうとしたら、身も心も苦しい。そうであれば、勝軍論師は、国の師を任されたのに辞退され、その時の言葉に仰ったように「人の碌を受ければ、人の事を憂う。まとわりついた糸のような生死を断とうと思っているのだから、何の暇があって君主にお仕えできようか」と(いうのが肝心である)。
拙僧ヘタレ訳
無住は、『寒山詩』から引用して、「水と氷」の関係の如く生死(輪廻)があるのだから、それに対して執着すべきではないとしています。しかし、この「美」という表現が、何とも我々の理解を超えていきます。「美」はただの美しいという意味だけではなく、「善い」などの意味があります。よって、寒山は生死の2つながら良いものだと示しています。ここでいう善いというのも、既に善悪を超えて、執着すべき対象ではなくて、まさにその執着が出来ない対象だからこそ、善いとされているのです。
そもそも、生死とは幻化の如く生滅するものでしかなく、一時的な迷いに過ぎません。よって、眼病によって見えた空華に過ぎないのです。そして、無住は更に、白楽天(白居易)の漢詩を引いて、この身を恋う必要はないとしています。煩悩の根源になるからであります。一方で厭う必要も無いとしています。それは元々虚空の塵が集まったに過ぎず、執着すべき対象にはならないからです。
このように、無住はこの第9巻の後半にて、2つの事柄が相反する状況で、その両方に把われないように示していきます。
また、とらわれの無さの極限に、名聞利養の否定があります。例えば、国に仕え、自らの家を保とうとすれば、心苦しくも宮仕えをしなければならず、その際の憂き目は、もはや修行を継続するべき状況にはないといえます。よって、そのような宮仕えの状況を回避し、ひたすらに生死輪廻を断つべく精進しなくてはならないのです。それを思えば、もはや「誰かのために」働いている暇はないといえます。では、こうなると「菩薩」の生き方はどうなってしまうのか?という話になります。
おそらく、ここでは、菩薩の生き方は、「修行」に含まれるのです。まさに、世俗的なそれも含めた「仕事」を意味する「諸縁」を抛捨しなくてはならないのです。余計なことをせず、ひたすらに解脱を願う、これは鴨長明『発心集』などを見ていると、当時の人々の心根にあったのだと、強く実感出来ますね。
第9巻は3年以上の連載になりましたが、今回で終わります。次回からは、新しい巻(最後の第10巻)に入ります。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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