ところで、あくまでも個人的見解ではありますが、この「セレンディピティ」というのは、科学の分野のみではなく、宗教の世界にもあるのではないかと思っております。その代表格が、阿弥陀仏では無かろうか?と思っているのです。阿弥陀仏は、初めて『般舟三昧経』という大乗経典に出て来るわけですが、この時の「般舟三昧」というのは当初、別のものを考えていたのではないか?と思われるわけです。
この経典では、颰陀和菩薩に対して、「十方諸仏悉在前立三昧」と、「定慧三昧」とを教えています。そして、この三昧を行ずれば良いと勧めているのですが、この三昧の内容を触れた同経「行品」では、次の偈が見えます。
一念を立て、是の法を信ぜよ。
聞く所に随って、其の方を念ぜよ。
宜しく一念して、諸想を断ずべし。
定信を立て、狐疑すること勿れ。
精進行して、懈怠すること勿れ。
有と無の想を、起こすこと勿れ。
進を念ずること勿れ。退を念ずること勿れ。
前を念ずること勿れ。後を念ずること勿れ。
左を念ずること勿れ。右を念ずること勿れ。
無を念ずること勿れ。有を念ずること勿れ。
遠を念ずること勿れ。近を念ずること勿れ。
痛を念ずること勿れ。痒を念ずること勿れ。
飢を念ずること勿れ。渇を念ずること勿れ。
寒を念ずること勿れ。熱を念ずること勿れ。
苦を念ずること勿れ。楽を念ずること勿れ。
生を念ずること勿れ。老を念ずること勿れ。
病を念ずること勿れ。死を念ずること勿れ。
身を念ずること勿れ。命を念ずること勿れ。寿を念ずること勿れ。
貧を念ずること勿れ。富を念ずること勿れ。
貴を念ずること勿れ。賤を念ずること勿れ。
色を念ずること勿れ。欲を念ずること勿れ。
小を念ずること勿れ。大を念ずること勿れ。
長を念ずること勿れ。短を念ずること勿れ。
好を念ずること勿れ。醜を念ずること勿れ。
悪を念ずること勿れ。善を念ずること勿れ。
瞋を念ずること勿れ。喜を念ずること勿れ。
坐を念ずること勿れ。起を念ずること勿れ。
行を念ずること勿れ。止を念ずること勿れ。
経を念ずること勿れ。法を念ずること勿れ。
是を念ずること勿れ。非を念ずること勿れ。
捨を念ずること勿れ。取を念ずること勿れ。
想を念ずること勿れ。識を念ずること勿れ。
断を念ずること勿れ。著を念ずること勿れ。
空を念ずること勿れ。実を念ずること勿れ。
軽を念ずること勿れ。重を念ずること勿れ。
難を念ずること勿れ。易を念ずること勿れ。
深を念ずること勿れ。浅を念ずること勿れ。
広を念ずること勿れ。狭を念ずること勿れ。
父を念ずること勿れ。母を念ずること勿れ。
妻を念ずること勿れ。子を念ずること勿れ。
親を念ずること勿れ。疎を念ずること勿れ。
憎を念ずること勿れ。愛を念ずること勿れ。
得を念ずること勿れ。失を念ずること勿れ。
成を念ずること勿れ。敗を念ずること勿れ。
清を念ずること勿れ。濁を念ずること勿れ。
「行品」
これが、菩薩行としての三昧の内容です。仏陀にこの三昧を教えられた颰陀和菩薩は、「是の行法を持して便ち三昧を得て、現在の諸仏、悉く前立すること在り」としています。そうなると、この三昧が、同時に仏の現前に繋がらなくてはならないわけですが、一念に集中せよ、という話は当然必要でしょうし、疑わず、精進せよ、というところも納得出来ます。そして、その後が問題です。後は、「有想・無想」に始まって、ありとあらゆる対立事項の両方を思うことがないように、としています。いわゆる分別心の否定です。
しかし不思議です。何故に、分別心の否定が、諸仏の現前に繋がるのでしょうか。実はここに、セレンディピティが関わっているのではないかと思っているわけです。本来、この三昧は、例えば、『般若心経』で、「是の諸法空相なり。生ぜず滅せず・増さず減らず・垢れず浄まらず…」と続くように、諸法の空相の様子を探るのに適した三昧であるように思われるわけです。ところが、ここから何故か、現在の諸仏が現前するという事態になるというのは、空相を探る事が、転じて、諸仏現前に繋がったとしか思えません。
その時、役に立ったであろう概念が「法身」であります。「法身」とは、法の常住なる様子を転じて、仏陀の身体(仏身)と見なす思想でありますが、これは普遍絶対であるが故に、同時にそれそのものを対象として知ることは困難です。しかし、このような三昧の中であれば、対立事項を一切否定し、しかし、ではそこで否定されつつも諸事象が、概念・論理として存在する「場所」が見出されるとすれば、それこそが「法身」になり得るわけです。
しかも、この法身が人格化された時、もう何百年も前に死んでいたはずの、仏陀に見えることが出来た喜び、一心に願って願って願って・・・その先にようやく見えた、仏陀。それを人は「無・量・寿」、つまりは「阿・弥・陀」と述べたに違いないのです。結果的に、諸々の対立事項を滅し去るという三昧の探究から、法身としての阿弥陀仏が現前してくることになるわけです。無論、『般舟三昧経』では、この「原初」の喜びが説かれることはありません。先の十方仏が現前する三昧の後で、西方を想うように説かれており、そこに阿弥陀仏が鎮座在しています。なので、この記事はあくまでも、「セレンディピティ」から余計な考えを回らせただけ、ということでございます。
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