習応品
『般若心経』(引用者註:ここでは玄奘三蔵訳のこと)の異訳である羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明呪経』の本文の半分ほどが、この「習応品」の文と合致しているために、『般若心経』は『大品般若経』の抄出ではないかという疑いも持たれている。『般若心経』と内容的によく似た部分があり、『心経』と共通の主題が見られるところからこれを選んだものである。
前掲同著、478頁
『大品般若経』に関する国訳文献や、一般に手に入る著作はほとんど見られず、この平井先生の本はその意味に於いて貴重な物ですが、収録されている般若経系経典は、『般若心経』(玄奘訳)・『金剛般若経』(羅什訳)・『大品般若経』(羅什訳)ということになりますが、最後の『大品般若経(摩訶般若波羅蜜経・二万五千頌般若・放光般若経・『大般若経』第二会)』は全27巻・90品の大著になりますので、当然に全部を収めることは出来ません。よって、平井先生はその一部を選ばれたということのようです。そういえば、龍樹菩薩『大智度論』は、この『大品般若経』に対する註釈なわけですが、拙僧自身、どこかで玄奘三蔵訳『大般若経』全600巻への註釈だと勘違いしていましてですね(汗)いやまぁ、訂正されたので良いのですが・・・
さておき、平井先生がご指摘される「内容的によく似た部分」ですが、以下のような箇所だと知られています。
舍利弗よ、色は空なるが故に悩壊の相無く、受は空なるが故に受の相無く、想は空なるが故に知の相無く、行は空なるが故に作の相無く、識は空なるが故に覚の相無し。何を以ての故に、舍利弗よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦た是の如くなればなり。舍利弗よ、是の諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢せず浄ぜず、増せず減ぜず。是の空法は、過去に非ず、未来に非ず、現在に非ず,是の故に空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・声・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。亦た無明も無く、亦た無明の尽くることも無く、乃至、亦た老死も無く、亦た老死の尽くることも無く、苦・集・滅・道も無く、亦た智も無く、亦た得も無し。
下線は拙僧
下線部をご覧いただければ分かると思いますが、この部分は玄奘訳『般若心経』にはないですけれども、他はほぼ同じことを述べていることが分かるかと存じます。無論、比べているのが玄奘訳と羅什訳という違いがあるので、細かな訳語は違いますが、原文は同じ内容であるといえるようですし、平井先生のご指摘にあるように、羅什訳『般若心経』にはこの下線部もあります。
それにしても、『般若心経』では、説法しているのは観自在菩薩(観世音菩薩)ということになっていますが、ここでは「仏、舎利弗に告げたもう」となっており、よって説法しているのは仏陀世尊であることになっています。おそらく、抄出するに当たって、あくまでも菩薩の行の中での説法という体裁を採るために、仏陀の言葉を、そのまま観音に話させているということになるのでしょう。そういえば、どこかの人が、これはだから「仏説じゃぁない」とか言っていた人がいましたが、まぁ、それはそれで・・・
無論、他にこういう形で抄出された経典があるのかどうか、基本的に勉強不足の拙僧には知る由もないのですが、しかし、少なくともこの一節を見る限りそういう推測くらいは出来るのかな、とは思います。まぁ、関係の論文を詳しく見ていくと分かるのでしょうが、それはそれとして、とりあえずこの記事では似ているということと、羅什訳『大品般若経』との関わりを見てみました。
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