つらつら日暮らし

『大般涅槃経』の「善知識七譬」参究(2)

当初は短期集中連載にするつもりでしたが、油断していたら完全に不定期連載になってしまったこの記事、とりあえずそれを反省しつつ、前回に引き続き、『大般涅槃経』巻25「光明遍照高貴徳王菩薩品第10-5」に出ている「善知識七譬」を学んでいきたいと思います。前回は、その総論部分に触れただけでしたが、今回からは具体的な内容に入っていきたいと思います。

 復た次に善男子、仏及び菩薩を大医となすが故に善知識と名づく。何を以ての故に、病を知り薬を知し、病に応じて薬を授くるが故なり。譬えば、良医は八種の術を善くす。
 先ず病相を観る。相に三種有り。何等とか三とす。謂く風・熱・水。風病有る者にはこれに蘇油を授け、熱病の人にはこれに石蜜を授け、水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知って薬を授け、差ゆることを得るをもっての故に、良医と名づく。
 仏及び菩薩、亦復是くの如く、諸の凡夫に病、三種有ることを知る。一には貪欲、二には瞋恚、三には愚痴。貪欲の病には骨相を観ぜしめ、瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしめ、愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。是の義をもっての故に、諸仏菩薩を善知識と名づく。


さて、「七譬」の2つ目です。『大般涅槃経』では、仏・菩薩を素晴らしい医師とするからこそ、善知識と名付けるとしています。それは、仏・菩薩とは、衆生の苦悩をよく知り、その原因と根治法を知っているからです。世間の病の原因も色々とあると思うのですが(同経では風・熱・水の三種にしているようです)、仏教の病を起こす原因は3つ、それが貪瞋痴の三毒です。いわば、むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろか(愚痴)という3つです。

それぞれ説明を要しないとも思いますが、一応申し上げれば、「むさぼり」について親鸞聖人の『弥陀如来名号徳』を参照しながら申し上げれば、「貪欲といふに二つあり。一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころ」ということです。性的欲求を貪ること、そして金銭を貪ることです。無論、ともに人間が人間として生きていくための生存欲にも直結することです。ただ、そうであるが故に、常に自己を見失い、いつの間にかそれらに依存することも能くあることなのです。そして、『涅槃経』では仏・菩薩が衆生の「貪欲」を見たらば、「骨相を観ぜしむ」とあります。これは、一種の「白骨観(不浄観)」だといえましょう。我々自身、肉体を持って生きていても、死ねば骨になってしまう、よって、そのような一時的な存在に心を寄せても無意味であるとし、観無常させるのです。観無常は、貪欲から離れる一番良い方法です。そして、「世間虚仮、唯仏是真」(聖徳太子)の言葉の如く、永遠なる真理としての仏道に帰入していくのです。

次に「いかり」についてですが、同じく親鸞聖人の言葉として「おもてにいかりはらだつかたち」「心のうちにそねみねたむこころ」とあります(同箇所、本来は「無瞋」について説いているので、文としては否定している形になりますが、敢えて「瞋恚」の分かるように引用しています)。顔に、怒りを湛え、腹立てる様子を見せること、これは良く分かりますが、表情に出さなくたって、心の中に「嫉み」「妬み」を持つこともまた、「瞋恚」です。「妬み」「嫉み」、或いはそれらを合わせて「嫉妬」といっても良いと思いますが、この心持ちも恐ろしいですね。仏教では本来、他人に良いことが起きた場合には、妬むのではなくて「随喜」するように説いています。これは、一緒になって喜んであげるということです。なお、『涅槃経』では、その随喜に到る最も基本的な心持ちとしての「慈悲を観ぜしむ」とあります。ただ、困っている人を助けるだけが「慈悲」ではありません(強いていえば、それは「悲」の働きとされます)。善いことを一緒に喜び、或いは善くなるように助けること、これも「慈悲」です。ここに「嫉妬」はあり得ません。仏教徒に嫉妬があってはならないのです。

最後に「おろか」についてですが、同じく親鸞聖人の言葉として「一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころ」が無いということです。世間的な評価としての「おろか」ということではなく、正しく仏道を学ぼうとしない、無上菩提に到ろうとしないこと、それが「おろか(愚痴)」なのです。自分にはその才能がない、或いは宗教など嫌い、これらが全て「おろか」ということです。しかし、因果の理法を信じ、そして仏陀釈尊の教えにしたがえば、必ず我々は無上菩提に至ることが出来るはずなのです。それは才能などの問題ではなく、今ここで学ぼうとする気力、志があるか否かです。『涅槃経』では、仏陀の「十二縁相を観ぜしむ」とあります。それはつまり、今自分が愚かであるということの理由である「無明」を正しく破るための方法論と、同時に方法そのものを提示していることになります。

このように、仏・菩薩は、一切衆生をして、様々な方法を正しく用いさせることにより、三毒から離れさせ、正しく仏の教えに帰入させていくわけです。よって、それは世間でいうところの「医師」のようなものであると、『大般涅槃経』では譬えているわけです。

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コメント一覧

tenjin95
追記です。
御指摘の通り、鈴木正三という人は、面白い人だと思います。拙ブログでは、何度かこの方の言葉を採り上げています。無論、これからもそうすると思いますが、是非、気になる記事などございましたら、コメントお寄せください。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> 繕心居士 さん

ご教授ありがとうございます。
なるほど、我々自身の行動決定などに影響を及ぼすかもしれない精神的な遺産ということですか。キャピタルは、支柱とでも訳した方が良いのかもしれませんね。
繕心居士
世界とわたし
 量子論の世界では、観測にある困難がともないます。この様子を考えまして、人間の認識を振り返りますれば、・・・

・・・仮に、観察する方の心境に変化が生じますと、映る世界もかわりますが、こころがわりすると、世もかわる・・・ので、観測に絶対の客観性が保てません。・・・観測する方が変わると、観測される方も変わったようになりますので・・・。

 人の精神的態度は、その人の接してきた文化的遺産に左右されるでしょうが、そう仮定すると、人間行動の趨勢の何がしかは、この有形無形の文化遺産が制約すると云えますが・・・

・・・この文化遺産のなかに、これまた精神的遺産が顔をだします。それで人間行動を観測する場合、この精神的・資本が、その行動を規制する要因になるものと考えられます。

 このような考え方は、あまり普及していません。大体、量子力学が話の種になることはあまりありませんし。スピリチュアル・キャピタルの概念を人間行動学に取り入れよう、と試みたのは物理学者でした。

 わたしは、けれども禅と現代物理学の分野に興味をもっています。

 禅については何か、非常にざん新な精神を感じます、活き活きしたリズムがほとばしっていて、新鮮です。

 最近、「文化遺産と経済」の論文などが出てきていますので、経済学のなかにスピリチュアル・キャピタルの概念が取り入れられる日も来るのではないか、と思います。

 鈴木正三などは、ひじょうにおもしろい人格ですねぇー・・・。

 

 
tenjin95
皆さんコメントありがとうございます。
> 観音寺和尚 さん

> 今日はわかりやすい記事でした。昨日はわかりにくい記事でしたから、なおさらそう思うのかもしれません。参究不足を感じます。

いえいえ、こちらこそ分かりにくい記事で申し訳ないです。

> 話は変わって、今日の記事で三毒の説明にわざわざ親鸞さんの教えを使っておられますが、理由でもあるのでしょうか。ご教授ください。

特に他意はなかったのですが、ただ、三毒というのは、まさに我々が凡夫たる最大の原因となるモノであり、親鸞聖人くらい「悪」について、良く見極めた方なら、適切な教えがあると思ったためです。

大したことでなくて恐縮です(汗)

> 繕心居士 さん

> ・・・聖徳太子の一族は、太子以後、滅亡しており、まことにいたわしい。世間虚仮の歴史見本と云うべきか、太子一族の非戦論の結末の因果か、あるいは思想闘争・利権要求の争いの末だったか、分からないが・・・

そうですね。まだまだ良く分からないところですね。ただ、興起滅亡は世の道理ではあります。

> 何れにしてもスピリチュアル・キャピタルの違いによるものであったろう。われわれの時代、太子のように世間虚仮・唯佛是真などと気軽に云ってはいられない現状だ。

スピリチュアル・キャピタルという言葉、初めて聞きましたので、ネットで調べてみたのですが、「セドナのような場所」ということが出たのですけれども、それですと文意が良く分かりません。大変に恐縮ですが、この語の詳細をお教えいただけましたら幸いです。
繕心居士
文明の闘争とスピリチュアル・キャピタル
>「世間虚仮、唯仏是真」(聖徳太子)の言葉の如く、永遠なる真理としての仏道に帰入していくのです。・・・

・・・聖徳太子の一族は、太子以後、滅亡しており、まことにいたわしい。世間虚仮の歴史見本と云うべきか、太子一族の非戦論の結末の因果か、あるいは思想闘争・利権要求の争いの末だったか、分からないが・・・

何れにしてもスピリチュアル・キャピタルの違いによるものであったろう。われわれの時代、太子のように世間虚仮・唯佛是真などと気軽に云ってはいられない現状だ。

 文明の闘争とスピリチュアル・キャピタルの相違に因って、世界は日蓮の最終戦争、あるいは石原莞爾のそれへと地すべり的に移行している観がある。

 オバマの核廃絶に歓喜の涙を流している平和論者もいるが、彼らの歓喜が続けばこれにこしたことはない。
観音寺和尚
質問です。
今日はわかりやすい記事でした。昨日はわかりにくい記事でしたから、なおさらそう思うのかもしれません。参究不足を感じます。

話は変わって、今日の記事で三毒の説明にわざわざ親鸞さんの教えを使っておられますが、理由でもあるのでしょうか。ご教授ください。
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