つらつら日暮らし

1月9日 一休さんで「とんちの日」

今日、1月9日は語呂合わせで「一休さん」に掛けて、「とんちの日」になる。今年は一休さんに因む説話『一休ばなし』を見ていきたい。この『一休ばなし』だが、なるほど一休禅師自身、『狂雲集』を見る限り、かなり奇行を重ねた人生であったことは間違い無いが、その実際の一休伝とは別に、様々な俗伝として成長したのが、『一休ばなし』として集大成された。更には同様の一休俗伝の編集は続き、結局はアニメによって理解されるようになった「一休さん」にまでなったのである(岩波書店新日本古典文学大系『仮名草子集』解題参照)。

さて、今日は『一休ばなし』巻4-2「愚痴なる者話則を乞ふ事」を見ていこうと思う。

 一休和尚の下に或る時檀家が来て申すには、「このお寺に出入りしていると、人々が『話則の一則も抜くことが出来たか』などと申して、我々の愚かさを莫迦にして、何とも迷惑しています。なんとしても、一則を、慈悲にて示してください」と申したところ、(一休和尚は)「容易いことだ。そうであれば参じてみよ」と答えた。
 (檀家が)「参ずるとは、どのようにすればよろしいのですか」と聞くと、(一休は)「いや、何なりとも、仏の道で合点がいかないことを尋ねられよ」というと、(檀家は)「かしこまりました」といって、仏殿を目指して走り出ていった。
 一休はその様子をおかしく思い、珍しい物を見るような顔をしていたのだが、(檀家は)すぐに走り帰っていた。
 一休は「どこに行ってきたのか」と聞くと、(檀家は)「仏の道に不審があるのなら申せ、と仰ったので、仏の道は仏殿に行く道だと思い、ひとっ走りして見てきたのですが、如何にも合点がいかないことがございました。あの山門の側にある松に、巣をかけている鳥が、何の巣か、合点がいきません。おそらくは鷺の巣であるとは見えますが、ハッキリとは判別出来ませんでした」と申したので、(一休は)「いやいや、烏こそ、今の時分には巣をかけるだろう」と仰ったので、(檀家は)「それなら、ついでのことなので、お慈悲を垂れて(公案を)お示し下さい」と申したので、(一休は)「その義であれば」というと、「梯子を持っていき、上ってみなさい」と仰ったので、その檀家は急いで上り、その巣を下ろしてみたところ、中には小鳥もおらず、何とも分からなかった。
 一休が「どうであった」というと、(檀家は)「何も中にはありませんでした」と申し上げたところ、一休和尚は、
  鷺の巣をおろして見ればからすにて
 と詠み、「これに脇の句を付けてみなさい。これが一則である」と仰ったので、かの檀家は「中々、何とも付け申すべき心はありません」と申し上げると、一休和尚が仰るには「それが答えだ。私もそなたに一則を授けて知らせるべき心はない」と示したので、かの檀家は驚き「なんと、一休様も脇の句を仰り難いのですか」と申したところ、(一休は)「自心自仏(自らの心こそが、自らの仏である)」と答えたので、拍手をハタと打って帰り、ついには(檀家は)自ら仏心を得られたのである。
    『仮名草子集』393~395頁、拙僧ヘタレ訳


う~む、これでも「頓知(とんち)」といえるかな?!それにしても、この檀家さんの打っても響かない様子には、困ったものだが、それでも何とかしてやろうという一休禅師の慈悲が素晴らしい。

この檀家さん、一話の公案を求めるまでは良かったが、「仏の道」と聞いたら、直ちに「仏が在す殿堂(=仏殿)」に向かって全速力で駆けていくのは、拙僧のような者からすれば、ギャグ以外の何ものでもないが、どうなのだろうか?!ギャグだったのか?本気だったのか?

さて、上記引用文で、面白いのは実はそこまでで、結論としては、一休禅師が不思議そうな顔をしたというだけである。後は、意外と凡作。公案としても、問答としても、如何にも「一般の人」が作りそうな話で、正直残念。訳し始めた当初は、もっと面白いのかな?と思っていたが、後半部分を訳した瞬間に、こりゃしまったと思ってしまった。とはいえ、別の文章を訳している暇も無し、このまま解説しておきたい。

仏殿まで駆けていったその檀家さんですが、「仏の道」を探しに行ったものの、途中の山門の近くにあった松に掛かっていた「鳥の巣」が気になってしまった。よって、しきりに「一則の公案を授けて欲しい」といわれていた一休禅師は、ここに「活路」を見出して、ネタにされた。

で、一休禅師は、檀家さんと巣の外見から、「鷺」か「烏」か、つまりは白は黒かを争われた。そこで、梯子で松の木に上り、直接巣を見るように促すと、その檀家は「中に何も入っていない巣」を手に入れた。一休禅師は、そこで「鷺の巣をおろして見ればからすにて」と一句を詠み、これに脇の句を付けるように檀家さんに促した。ところが、檀家さんは容易に句を付けることが出来ない。それをそのまま一休禅師に申し上げたが、一休禅師は、「句の付けようがないことが大事だ」と仰った。

つまり、悟りには、容易に言詮が及ばない様子を書かれたのである。

ところが、檀家さんはそれが分からない。よって、ただ「一休禅師にも難しい話なのか!」と感嘆してしまった。一休禅師、ここで慈悲を垂れて、「自心自仏」という「一転語」を授け、この公案を締めくくられた。いや、余りに分かり易すぎる一句ではあるが、それ位いわないと分からないと思われたものか。つまり、外に見える巣の内容が問題なのではなく、あくまでも自己の問題だとされたのである。しかも、その実体も存在しないのである。

何も無い、無から促される自心自仏、それに気付かなければならないという慈悲の垂示だといえる。とはいえ、本当にこの問答は凡作だな。「とんち」の日には相応しくなかったかもしれないが、檀家さんが仏心を得られたなら、それが一番だな。

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