一 尼僧正并びに尼都維那・尼統
宋の大始二年、尼宝賢に勅して、尼僧正と為す。又、法浄を以て京邑の尼都維那と為す。
梁・陳・隋・唐、其の事少しなり。偏覇の国には往々、尼統・尼正の名を聞く。
『緇門正儀』3丁表、訓読は原典を参照しつつ当方
いわゆる女性僧侶である比丘尼についての僧官について述べたものだといえる。なお、上記一節の典拠は『大宋僧史略』巻中「二十八立僧正〈立尼正附〉」からの引用である。
それで、上記の一節について、何を言っているのか簡単に訳してみたいが、「宋」の大始(おそらくは「前涼の太始」)2年(356)には、宝賢という尼僧に勅して、「尼僧正」に任命し、また、法浄は「尼都維那」に任命したという。「都維那」については、また後の連載で取り上げたいと思うが、簡単に申し上げれば「寺院内の諸事務を司り、他の僧侶への指導を行う役目」である。一般的には「維那」と呼ばれる。
要するに、尼僧教団に於いて、指導的立場にある者が認められたことを意味している。
このような尼僧の僧官については、「梁・陳・隋・唐、其の事少かなり。偏覇の国には往々、尼統・尼正の名を聞く」としている。つまり、尼僧の僧官が置かれた国と、そうでは無い国とがあって、中国南北朝時代の南朝梁や陳、或いは南北朝時代を統一した隋や唐では、尼僧の僧官が少なかったという。一方で、「偏覇の国」には多かったという。これは、或る意味で差別的感情もあるのかもしれないが、少し混雑した話なので扱いが難しい。つまり、「覇道」で国を治めた場合には、尼僧の僧官が多かったとしている。当然、覇道と王道では、王道の方が上だとされるので、ここに差別的な観念が見て取れるのである。
ところで、梁や陳といった南朝の国に尼僧の僧官が見られたようだが、『大宋僧史略』の原文では、上記一節の前に「北朝制を立て多く是れ僧に附す。南土新規に別に尼正を行ず」とあって、北朝では男性僧侶に付随する形で尼僧教団があったわけだが、南朝では、比丘教団とは別に、尼僧教団を認めた、という風に見える。
ただし、上記の内容では南朝の一部の国には少なかったとしているので、矛盾を感じる。そのため、釈雲照律師は、その部分の引用をしなかったのだろうか。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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