例えば、道元禅師は明確に冬安居を否定されている。
梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正伝、まのあたり五十一世なり。
『正法眼蔵』「安居」巻
以上のように、道元禅師は『梵網経』に「冬安居」の指摘があるが、その方法が伝来しておらず、夏安居のみだとされるのである。この『梵網経』の元の文章だが、以下のようになっている。
なんじ仏子、常に二時に頭陀し、冬夏に坐禅し、結夏安居して、常に楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・坐具・錫杖・香炉・漉水嚢・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩形像を用うべし。而も菩薩、頭陀を行ずる時、及び遊方の時に、百里・千里を行来するには、此の十八種物、常に其の身に随えよ。頭陀は、正月十五日より三月十五日に至り、八月十五日より十月十五日に至る。是の二時中、此の十八種物、常に其の身に随うは、鳥の二翼の如し。
「第三十七故入難処戒」
この通り、『梵網経』に示す第三十七軽戒が該当しているとされる(道元禅師の文章の意義を上記一節で理解するのは、無著道忠『禅林象器箋』巻四「第四類 節時門」収録の「冬安居」を参照)。ただし、『梵網経』をよく読むと、微妙な違和感も残る。確かに、安居しない遊行の期間(「頭陀」と表現)については1月15日~3月15日、8月15日~10月15日ということになっている。ということは、その間である3月15日~8月15日、10月15日~1月15日までが安居なのか?と思うと、『梵網経』本文は「冬夏に坐禅し、結夏安居して」とあって、「安居」については「夏安居」のみを指摘している。
となると、冬安居については明示されていないことになる。また、夏安居が重視されていたことの証左として、そもそも九旬安居であるから、90日になるはずなのに、夏安居の期間として、『梵網経』では5ヶ月が指定されている。ただし、ここには理由もあり、改めて道元禅師の指摘を見ておきたい。
しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧、ありきせず、諸方の接待、およひ諸寺の旦過、みな門を鏁せり。
「安居」巻
このように、遊行の期間は3月中には終わり、4月からは歩かず、そして4月15日の結夏安居(結制)に至る。或いは、寒暖の気候の問題で、1ヶ月ほどずらす場合もあったというから、その期間も想定されているのかもしれない。一方で冬安居に該当するであろう期間は、本当に90日しかなく、正規の安居であったかどうか不明な点が残る。その意味では、「冬夏に坐禅」という言葉の通りで、「夏坐禅=夏安居」であろうが、「冬坐禅」は安居という正式な修行法ではない状況で修行していたのかもしれないと思うようになった。
ところで、これも先に挙げた無著道忠『禅林象器箋』で挙げるところであるが、道元禅師の師翁であった明庵栄西禅師の主著『興禅護国論』を見ると、当時の中国の様子を以下のように伝えている。
十、夏冬安居。謂わく、四月十五日に結夏し、七月十五日に解夏す。又た、十月十五日に受歳し、正月十五日に解歳す。此の二時の安居、並びに是れ聖制なり。信行せずんばあるべからず。我が国、此の儀、絶えて久しし。大宋国の比丘は、二時の安居、闕怠無し。安居せず、而も夏臘の二名を称するは、仏法中の笑うところなり。
「第八禅宗支目門」
栄西禅師は、「結夏・解夏」という「夏安居」の他に、「受歳・解歳」という実質的な「冬安居」を指摘している。また、これを中国の禅林で行っているともするのだが、確かに、このお二人と同時代に中国に留学した日本僧の伝記には、冬安居のことについて触れる場合があるので、栄西禅師の言う通りなのだろう。そして、道元禅師は敢えて、冬安居を否定されたという流れになる。
理由については、よく分からない。『四分律』などを見ると、やはり「夏安居」のみであって「冬安居」がない。具体的には『四分律』巻37「安居犍度」を見ていただければ良いと思うが、年がら年中遊行していた比丘達が、夏の遊行に大きな問題があると他律・自覚し、世尊が「夏安居」を制定したことが分かる。その意味で、『梵網経』に由来しつつ「冬安居」を行う中国禅林ではあったが、道元禅師は批判的だったというべきなのだろう。
難しいのが瑩山禅師で、『瑩山清規』を見ると、明らかに「夏安居」は修行されている。しかし、冬安居についての詳しい指摘は見えない。とはいえ、11月の冬至の頃の記述に、「冬至以前四五日前、四月以後の掛搭僧、謝掛搭の儀を行ず。夏前の如し」とあって、何らかの「掛搭」の儀が行われていた様子が分かるのだが、これのみであり、これは正式な「結制」ではないと思う。しかし、一般的な冬安居期間にも、瑩山禅師は様々な年中行事を組み込まれているので、大衆がいることを想定した流れであった。よって、『洞谷記』には、「同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……」とあって、「冬安居」の記述が見える。よって、もしかすると、「冬安居」と呼ばれていたのかもしれないが、詳細はこれ以上知られない。
江戸時代になると、月舟宗胡禅師・卍山道白禅師『椙樹林清規』、面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』、玄透即中禅師『永平寺小清規』などで、基本的に冬安居を実施している様子が分かる。そのため、明治時代に編集された『明治校訂洞上行持軌範』でも、何の説明も無く夏冬二安居を基本としているのである。
よって、以上のような流れから、曹洞宗で道元禅師が否定した「冬安居」ではあるが、早い段階で「冬安居相当」の行持が行われ、江戸時代以降は明確に実施されていくことが理解出来たと思う。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事