つらつら日暮らし

沢庵宗彭禅師が語る「多欲と無欲」

なんか、今日は江戸時代の臨済宗・沢庵宗彭禅師(1573~1646)の命日らしい。具体的には旧暦の正保2年12月11日に御遷化されたとのことである。そのため、今日は沢庵禅師の顕彰を目指し、その教えを見ておきたい。

一 多欲の人は却て無欲なり、多欲の人多く財を得んと思ふて、中を越へて多なる故に、集めたる財を一時に官に奪はれ、剰へ其身を亡す、則ち財を奪はるるのみならず、一つある命を添へて失ふ、則ち多欲の人は無欲の人なり、小欲の人は其分に随つて得る所の財をよく保つて、其身を全ふして天命を終ふ、これ多く財を得るなりと思へり、否なるや、或人曰く、然らは多く財をあつむるを富と云ふことは、総じてあるましきこと歟、天下の者皆貴人たるへきかと云ふ、われ云ふ、その中を得るときは則ち富も亦得たり、その儀も亦得たり、貧なるときは則ち貧も亦得たり、天下何そ貴人たらんや、故に曰く、不義にして富み且つ貴きは我にをいて浮雲の如しと云へり、義にあたるときは則ち何ぞこれに悪あらん。
    『玲瓏随筆』巻1、古林如拙編『沢庵和尚全集』(上田屋書店・明治30年)34頁、漢字を現在通用のものに改める


そもそも、仏教では多欲は厳禁であり、小欲を尊ぶ傾向にある(例えば『遺教経』に見える「八大人覚」など)。そこで、多欲についての批判をするというのであれば、当然に過ぎて面白みなどに欠けるのだが、ここで沢庵禅師は「多欲の人は却て無欲なり」と、逆説的な教えを示しておられる。

内容は読んでいただければ分かるように、或る種のアイロニーに満ちているし、これは基本的人権という観点からもどうか?とは思われる部分もある。ただ、おそらくは多欲の人の行いは「不義」なのである。何故ならば、多くの財を得ようと思い、違法行為などにも手を染めることを意味しているのだろう。その結果、集めた財を、或る時官(幕府)に奪われ、自分自身の命をも失うとしているのである。

そのため、沢庵禅師は多欲の人は、実は無欲なのだとしている。何故ならば、自分の命すら執着していないように思えるためである。

一方で、小欲の人は自分の分(能力や才能など)に随って財を集め、その身を全うする。沢庵禅師は、これは結果として多くの財を得ていると評している。

こういう文章から拝察すると、沢庵禅師という人は、アイロニーを用いることで、従来の価値観を揺らがせ、そこに自省の念などを起こさせる指導をしていたように思う。禅僧ではあるけれども、転じて、自由に言葉を発していたわけである。

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