八月一日、天中節。赤口白舌、節に随って滅す。
雲、峰頭に集まり秋水清し。樹功の草料、暁風悦ぶ。
『永平広録』巻1-104上堂
陰暦の8月1日は、陰陽思想などで「天中節」だと考えられた。特に、「火災・盗難・疾病・口舌」の災いを払うために「全ての悪口が、節に随って滅する」というお札を、日の出前に貼るべきだとされていた。
道元禅師もこのような上堂をされた以上は、「天中節」の行いをされたのではないかと拝察するが、だからこそ、「雲は峰の頂上に集まって、秋の水は清い」といったような風情や、その元にある「樹にも草にも功徳が及び、暁の風を悦ぶ」といったような自然への眼差しが豊かになっている。
まだ新暦の8月には、秋の雰囲気や暁の涼しい風を悦ぶような事態には至らないが、我々にとって自然への眼差しは、どうしても自分自身を残して、そこに没入してしまいがちである。そして、それでは対象として自然を見ることでしか無く、その自然は我々自身の知見に合わせるように縮小され、貧弱な物でしかない。
自然とは、我々自身の想いなどを受け付けないからこそ、自然である。もちろん、大きな心で見てみれば、我々自身の想いとて自然そのものである。しかし、その想いは安易に自然を自然ではなくし、同時は想いそのものも自然ではなくなってしまうといえる。
なお、この道元禅師の上堂語は典拠がある。
五月五日、天中節、赤口毒舌、尽く消滅す。
五月五日五時の書、蛇頭を放下して虎鬚を捋す。
『圜悟仏果禅師語録』巻8
中国臨済宗の圜悟克勤禅師による「五月五日の天中節」であるが、「赤口毒舌、尽く消滅す」とあるが、道元禅師はそれを、「赤口白舌、節に随って滅ず」とあって、「尽く」というような表現ではなく、おそらくは修行者側の何かの行為に基づいて滅することを説いている。そうなると、ここで問われているのは、罪の消滅である。
世尊のしめしましますがごときは、善悪の業、つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも、不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。しかあれば、悪業は、懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず。
『正法眼蔵』「三時業」巻
これは、道元禅師晩年の指摘ではあるが、こちらは悪業も懺悔すれば消滅するという話である。この滅した先の様子は分からなくなるが、先の上堂で道元禅師は「雲、峰頭に集まり秋水清し。樹功の草料、暁風悦ぶ」という自然を詠まれた。しかし、自然における無分別の様子は、法の働くさまでもある。罪を滅したからこそ見える法の働きもある。ただし、この猛暑もまた法の働きと見るのは、感情との関係が大変だ。
そういえば、新暦以降の8月は「盆月」でもあるので、盂蘭盆会に関する記事が増えることになると思う。興味のある方はご覧いただきたい。
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