若しくは言行相応とは、能く罪を捨てると為し、先づ十戒を授け、三年失無くんば、乃ち二百五十戒を与う。其れ十戒を本と為し、二百四十戒を礼節威儀と為す。
『般泥洹経』巻下
これは、阿含部系の涅槃経(釈尊入滅を扱った経典)なのだが、いわゆる声聞戒(比丘戒)について、「十戒が基本」であり、残りの「二百四十戒」については、「礼節威儀」であるとしているのである。
ところで、上記一節については、おそらく最初に沙弥十戒を授けていて、その後三年、戒律に関する過失が無ければ、二百五十戒を授けるべきだということになる。上記の異訳である『仏般泥洹経』巻下でも、上記とほぼ同じとなる一節があるのだが、そちらの場合、釈尊入滅後に、沙門になりたいと願い出てきた者に対する対応方法として指摘されている。
吾が滅度の後、其れ世人有りて、家を棄て穢を去りて、沙門に作らんと欲すれば、比丘僧中に入れて、先づ三月を試し、知行高下せよ。
『仏般泥洹経』
以上の通りである。実際、釈尊が入滅後について細かく示すのは、涅槃経系の特徴ではあるが、以上のような受け入れ方法が明示されていたのである。そして、それに伴う授戒の作法も定められていたことに注目したい。なお、後代一般的となった方法としては、まず、沙弥として出家させ、そして20歳以上になったら、比丘戒(声聞戒)を授けて比丘にし、更にそこから5年は必ず和尚の下で指導を受けるのである。
しかし、上記の一節を思うと、沙弥の期間は3ヶ月(一夏?)以上だったことになりそうだが、それに因む教えについては、当方、寡聞にして知らない。とはいえ、今後の勉強次第であると思う。
そういえば、やはり涅槃経系の文献で、阿含部の『大般涅槃経』では、比丘としてより増長していくための「七種法」を示す中で、「三つには、禁戒を護持し、及び礼儀を持す」とあるので、やはり「礼儀」が比丘にとって重要だったと思われるのだが、これは、いわゆる儒教的な「礼則」を意味してはおるまい。
むしろ、禁戒の他に、比丘として身に着けるべき、日常的な振る舞いを意味していると思われる。そして、それが「二百四十戒」分あるという話があったわけだが、現在一般的に閲覧可能な『四分律』を見ると、そういう風にはなっていないので、極論が過ぎた印象はある。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事