今即ち、是の如く勧誘するは、古今一揆なり。故に仏言く、「是れ諸仏の本原、行者菩薩道の根本なり。是れ、大衆・諸仏子の根本なり」〈已上、梵網〉。
又、言く、「仏家に住在するは、戒を以て本と為す。〈中略〉初めて発心・出家して、菩薩位を紹がんと欲する者は、当に先ず正法戒を受けるべし。戒は是、一切行の功徳蔵の根本なり。正に、仏道の果に向かって、一切行の本なり」〈已上、瓔珞〉。
是の故に、一切の仏子、先ず戒に依りて入る。戒に依りて住す。戒に依りて成弁す。
『禅苑清規』曰く、「参禅問道は、必ず受戒を先とす。三世諸仏、皆出家受戒す」。
然らば則ち、今日、何としてか、高心空腹にして、受戒の法を受けざるや。謹んで参玄の人に白す、此の戒を宜しく受持すべし。一撃に所知を忘ずるは、必ず此の修治を仮らん。
指月慧印禅師『禅戒篇』「勧戒」項
ここで説かれているのは、受戒を推奨し、勧誘する理由についてである。そして、指月禅師は大乗戒系の経典である『梵網経』『瓔珞経』を典拠として、戒を受けることが、菩薩道を歩むための原点であるとした。これは、仏道修行の基本である三学、つまり戒学・定学・慧学の内、戒学が最初に来ていることとも関連している。
つまり、受戒の意義については、とにかく仏道修行に入るときの前提として考えられているから、ということになる。
然るに、その前提をもって、「先ず戒に依りて入る。戒に依りて住す。戒に依りて成弁す」とあるのは、受戒が仏道修行に入る条件であり、更に仏道に留まる条件であり、更に仏道を弁えるための条件であることをいう。この三者をもって、受戒は禅を学び、道を問うときの前提であり、三世の諸仏も、皆受戒したのである。
なお、であれば、受戒が仏道の全てなのか?といえば、もちろんそうではない。後は、その仏道を学びたいと願う人が掴んだ縁によって、様々な修行を行い、様々な教えを学ぶことにもなろう。また、その中にはもちろん、厳しく戒を守ることもあるだろうし、持戒には熱心でなくても、縁を繋ぎ続ける場合もあろう。
しかし、どれもこれも、受戒があってこそ、である。
例えば、道元禅師は指月禅師が引いた『禅苑清規』を引いて、やはり受戒の功徳を説く。それは、後に成仏するための必要条件だからである。日本では、一部の宗派で戒を説かない。そしてほとんどの宗派で形骸化し、内容が無い。戒を説かないのは、いわゆる釈迦牟尼仏の仏法ではなく、阿弥陀仏の仏法になってしまっているからだ。形骸化については、余り気にすることではないと思う。戒の多くは、自分にとっての努力目標だ。出来る範囲で実践すれば良い。
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