つらつら日暮らし

教授阿闍梨としての懐奘禅師

我々は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)について、道元禅師の僧団の中で、どのような位置付けにあったのかを正しく理解出来ているのだろうか。無論、後継者としての立場であったりとか、『正法眼蔵随聞記』の記録や、『正法眼蔵』の書写・編集等はよく知られたことであると思う。その上で、拙僧は敢えて以下の記述に注目しておきたいと思う。

僧海・詮慧等深草諸衆、尽く師を以て教授闍梨となす。一会の上足なり。
    『三大尊行状記』「懐奘禅師章」


このように、懐奘禅師に関する最古の記録の1つである『三大尊行状記』では、僧海首座や詮慧禅師などの、深草・興聖寺時代から道元禅師僧団に入った者にとって、懐奘禅師を「教授闍梨」として仰いでいたことを意味している。「教授闍梨」については、詳しくは「教授阿闍梨」と表現されるべきものであり、現行の宗門であれば、すぐに授戒会などに於ける「教授師」を想像されると思う。

しかし、おそらくここでは、伝統的な仏教に於ける「教授阿闍梨」ということなのだろうと思う。それは、僧団に於ける規則(本来は『律』だが、禅門なので「清規」になるか)などを、和尚に代わって大衆に教える存在であったのだろうと思われる。僧海首座については、来歴で不明な点もあるが、道元禅師が興聖寺に居られた頃に、27歳で示寂されたことは知られている。詮慧禅師は元々、天台僧であったとされる。

つまり、道元禅師の僧団に入る際に、威儀や作法などを指導される必要があったのであり、懐奘禅師はその役割を担っていたことを意味していよう。

また、併せて、『仏祖正伝菩薩戒作法』に於ける「教授阿闍梨」の役割も兼ねたのだと思われるが、むしろ、そちらは「従」であったか、或いは特殊的状況であったのだろうと思われる。

懐奘禅師については、以下の記述があることでも知られている。

 元公、永平寺に移り、始めて衆の行法を始めるの時、必ず師(=懐奘禅師)を以てして始めて行ぜしむ。
 師、有る時問うて云く「和尚、什麼としてか、一切の事を、必ず某甲を以てして始めて行ぜしむるか。和尚、自ら行わざるか」。
 元曰く「当山は仏法の勝地なれども、法をして久住せしむ、是れ所望なり。我、公(=懐奘禅師)より少(わか)きと雖も、必ず短命なるべし。公、我より老なりと雖も、必ず長寿なるべし。我が仏法、必ず公に至って来際に弘通し、流転すること無窮なるは、即ち公の児孫のみ。故に、山門を鎮めるが故に、公をして行事を始めしむ。蓋し是れ、法をして久住せしむる為なり」。
 師勝資強の有徳、永平門下ただ、師、独りなるのみ。
    『永平寺三祖行業記』「懐奘禅師章」


こちらの記録からは、懐奘禅師が永平寺での行法を行う際に、必ず最初に行って、やはり他の大衆の軌範となったことを示している。こちらでも、教授阿闍梨の立場だったことは明らかであり、おそらくは道元禅師が理想とされた清規の確立は、懐奘禅師がおられなければ成り立たなかったのであろうと思われるのである。

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