そこで、最大の問題は、拙僧自身、「施食会」と「盂蘭盆会」との違いが良く分かっていなかったということがいえる。また、「施食会」やその作法に関する参究も進めて、原典や歴史的経緯なども明らかになってきた。
現在では、「盂蘭盆会」の季節になると、曹洞宗では「施食会」という儀式が一緒に行われる。「施食会」とは、古来から「施餓鬼会」「水陸会」「冥陽会」などと呼ばれた儀式で、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養し、そして現当二世の福徳を祈るという内容である。
そもそも餓鬼道とは「生前に嫉妬深かったり、物惜しみやむさぼる行為が甚だしかった者が赴く場所である」とされるか、ヒンドゥー教では死後1年経つと祖霊の仲間入りをするが、その1年間に供物がきちんと与えられないと、亡霊となってしまい、これが餓鬼であるともされる。
【施食会と阿難尊者】
そこで、中国ではこういった餓鬼道へ堕ちないように、餓鬼を供養することが流行した。その原典となったのは、不空訳の『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(『大正蔵』巻21所収)に、釈尊のいとこで侍者の阿難尊者が、焔口という餓鬼から、自分が3日後に死に、餓鬼になることを免れるために餓鬼や婆羅門に施食することを求められた。
しかし、そんなことは容易に出来ないため、釈尊からそれを可能とする陀羅尼を教わって誦したとされる。この経典は、「不空訳」からも理解できるように、元々は密教系の経典である。それが各宗派に導入されて(浄土真宗はやらないとも)現代に到る。
この時に重要なことは、阿難尊者自身が福徳を得たことと合わせて、餓鬼もまた大いに救済されるという自利利他円満の供養が行われたことである。
【盂蘭盆会と目連尊者】
日本では、この阿難尊者の説話に合わせて、「盂蘭盆会」の説話になる目連尊者の故事を良く引用された。元々盂蘭盆とは、【雨安居】の最終日(7月15日)に僧侶が他の僧の前に於いて自ら犯した罪を指摘されて、懺悔する「自恣」の儀式を行った時に、亡き親への追善を願って、その自恣をして清浄となった僧侶達に盆器に持った食事を差し上げて供養することを目的に「盂蘭盆」という儀式になったという。
語源は、中国語で「倒懸」を意味するサンスクリット語の俗語形「ullambana」だとも、イラン系言語で「魂」を意味する「urvan」など、色々いわれている。特に後者は、この言葉が使われている地方が、拝火教(=ゾロアスター教)を信仰していたこともあり、現在の日本ではお盆に“送り火”“迎え火などを用いることから、近いともされている。
そんな中、中国に盂蘭盆会の儀式が導入されていくが、その際に『仏説盂蘭盆経』(『大正蔵』巻16所収)という偽経が制作されたと考えられている(類似した異訳が複数存在)。この経典は、布施の功徳を先祖供養に結びつけて説き、「孝」を重んじた。よって、中国や日本で重用され、大きな影響を与えたという。
内容は、目連尊者は修行によって得た神通力によって、死んだ母親が餓鬼世界に堕ちて苦しんでいるのを発見し、それを釈尊へ相談したところ、安居を終える際の僧侶達への食事を供養するように教えられ、その功徳で母親が救われるという福徳を得たという。
【曹洞宗での盂蘭盆施食会】
以上のことから、まず理解されねばならないのは、本来「施食会」と「盂蘭盆会」とは、全く違う法要であった。それが、おそらくは「餓鬼への供養」「僧侶への供養」という共通項があったために習合して、良い意味で分離されずに行われるようになったと思われる。また、曹洞宗に於ける「供養」とは、道元禅師『正法眼蔵』「供養諸仏」巻に詳しく説かれるところだが、その理念を見ても、日本人の「仏(ほとけ・ホトケ)」観と相俟って、先祖=仏(ほとけ・ホトケ)と、「供養諸仏」とが習合した可能性がある。
過去の諸仏を供養したてまつり、出家し、随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり。供仏の功徳によりて、作仏するなり。いまだかつて一仏をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作仏することあらん、無因作仏あるべからず。
『正法眼蔵』「供養諸仏」巻
作仏とは、供養した功徳によって得ることだという明確な提唱である。更に同巻中には「塔婆供養」なども説かれ、曹洞宗で先祖供養の際に塔婆供養が行われる原典ともなっている。この傾向は、12巻本『正法眼蔵』になる同巻よりも前に、75巻本系統の「発菩提心(発無上心)」巻にも見ることが出来る。若い頃には、それほど先祖供養を重視しなかった道元禅師だが、越前に移る頃からは、先祖供養などにも一定の理解を示し、御自身も両親の供養を行われている。
その道元禅師が晩年に構築された永平寺での修行体系について、永平寺2世・懐奘禅師(1198~1280)から親しく教えを受けていたであろう瑩山紹瑾禅師(1264~1325、懐奘禅師を受業師とされた)が、改めて永光寺の行持次第をまとめた『瑩山清規』でその方法を組織化したと見るべきである。そして、現行の曹洞宗の全国諸寺院で盛んに行われる施食会或いは盂蘭盆会で読まれる『甘露門』という教典に繋がっていく。
この教典は江戸時代の面山瑞方禅師が編集されたもので、原典は『瑩山清規』だが、その写本の状態などを批判的に捉えつつ、真言宗の僧侶などから指導を受けて編集されたことが知られ、また、面山禅師自身『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』等に当たって校訂したものである。
現行の経中では、仏法僧の三宝に奉って加護を頂戴し、そして餓鬼を供養する願いを発し、諸々の効果のある陀羅尼を唱えている。そこでは、餓鬼を呼び寄せ⇒餓鬼はノドが小さくて食べ物が入らないために、そのノドを大きく開き⇒その開いたノドに仏の功徳でもって智慧の味が付いた食べ物を供養し⇒甘露の法味をもって一切の苦を除き⇒毘盧遮那仏の心へと到り⇒五如来を呼び出し⇒菩提心を発して修行へ到らせ⇒菩薩が受持するべき戒律(密教系の三摩耶戒)を授け⇒修行するべき楼閣へ安住させて⇒全ての諸仏へ結縁して悟りの世界に入る、という内容である。もし、菩提寺・檀那寺などでこういった施食会の供養に会われた方は、上記内容を行っているとご理解いただければ幸甚である。
しかし、上記のような、盂蘭盆会と施食会との習合について、江戸時代の真言律宗の僧侶・諦忍妙竜律師が『盆供施餓鬼問弁』で批判した。以下の一節である。
○問、今時、世上を見るに、七月に入や否、直に盆供を執行ひ、施餓鬼と盆供とは全く一事なりと思ひ混乱して修する者あり。是歟、不是歟、如何。
答、是は大ひに不可なり。施餓鬼と盆供とは各別の物なり。何ぞ一混すべけんや。盆供は目連より起り七月十五日に限る。施餓鬼は阿難より起り毎日黄昏に修す。盆供は百味五菓を以て十方自恣の僧衆を供養し、施餓鬼は一器の浄食を以て専ら餓鬼趣を救ふ。由来、雲泥の隔あり。是を一混するは大なる謬なり。
『盆供施餓鬼問弁』第一問答、明和2年版を参照しつつ引用
要するに、施食会と盂蘭盆会とは全く別物というのが、諦忍律師の見解であって、曹洞宗も含めた一部教団の作法を批判したことは間違いない。或る意味、拙僧も以前はこの見解に近かった。ところが、諦忍律師の批判に対して、曹洞宗では明治期に再批判を行った。簡単にその一節を採り上げてみたい。
以上諸規の示す処に拠るに、解制自恣の日、即ち盂蘭盆会施餓鬼を修するは禅林の通規なり。今より一百廿五年前明和二年乙酉秋、尾州興正寺諦忍律師の著述せる盆供施餓鬼問弁と云雑書あり。施餓鬼と盆供とは各別の物なり、一混するは非なりと喋々弁明したれども、彼が如きは元と是れ律門の偏見にして、蝦跳れども斗を出でざるものなれば、固より取るに足らず。禅林の通規は第一義天に立て法界を大観す。嘗て偏見局量に依らず、大心を廻して大法を修するなり。今ま前に抄出する処の諸規を参考するに盂蘭盆会に於て施餓鬼を修するは同一なりと雖、其の施設の供具幢幡に少異あり。依て諸規を折衷し之を左に確定す。
『明治校訂洞上行持軌範』巻中「年分行持・施食会」項、引用に当たりカナをかなにし句読点を適宜付す
以上の通りである。このことから、曹洞宗では基本的に、「盂蘭盆施食会」として修行しているのである。よって、以前から、個人的には盂蘭盆会と施食会との区別を考えていたのだが、実際には敢えて、習合することをこそを伝統だと重視したことに鑑み、現状では区別すべきでは無いと考えているのである。
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