つらつら日暮らし

彼岸と此岸とその間

中国臨済宗の大慧宗杲禅師(1089~1163)にこんな教えが残されている。

黄面老子、纔かに悟了して、便ち此の如き広大なるを見得す。然る後に、慈を興し、悲を運んで、生死の海に於いて、此岸に著かず、彼岸に著かず、中流に住せず。而も能く此岸の衆生を運載して、彼岸に到らんと欲す。生死の中流に住せず。
    『大慧普説』巻17


黄面の老師というのは、釈迦牟尼仏のことである。よって、釈尊が悟って、広大なる仏法を見得し、その後、慈悲を興して生死の海の中にあって、迷いの岸にも悟りの岸にも、その中にも留まらず、迷いの岸にある衆生を運んで、彼岸に到ろうとしたというのである。釈尊の慈悲による衆生済度を意味しているといえる。

浄土教系の文章を集めた文献に、このように書いてある。

阿弥陀仏と観音・勢至と大願の船に乗り、生死の海を泛る。此岸に著かず、彼岸に留まらず、中流に止まらず、唯だ済度を以て仏事となすのみ。
    『楽邦文類』巻第二「天台浄土十疑論序」


先の釈尊のやっていることと全く同じ。とはいえ、大慧の見解も、こちらの見解も、ともに「大乗の求める如来」のイメージである。ただ、衆生を此岸から彼岸に連れて行くという済度の役割のみが強調されている。

法眼宗の永明延寿(906~974)の『宗鏡録』には、このようにある。

又た解脱を、到彼岸と名づく。譬えば大海の、此彼岸有るが如し。解脱は爾らず。此岸無しと雖も、彼岸有り。彼岸有るは、即ち真の解脱なり。真の解脱とは、即ち是れ如来なり。
    『宗鏡録』巻31


解脱を到彼岸とすることについて、ここではただ「彼岸のみ有る」という意味で用いていることが分かる。大海に、此彼岸という両岸があるけれども、解脱とはそうではなくて、此岸が無くてただ彼岸だけになるということである。いわば、此岸・彼岸の相対を破して、彼岸きりにすることであり、それを真の解脱といい、真の解脱を体得した存在が、如来だということである。

そうなると、ここで此彼岸を分けているのは、衆生の迷いであり、転じて如来は一切全てが彼岸になっているといえる。だからこそ、彼岸のみとなって、此岸無く、そこに留まることも無いという解釈が可能である。この辺を突っ込んだのが、達磨大師に仮託されている『少室六門』である。

無相処を名づけて彼岸と為す。迷時に此岸有り、悟時に此岸無し。何を以ての故に、凡夫、一向に此に住するが為なり。若し最上乗を覚らば、心、此に住せず、亦た彼に往かず。故に能く此彼岸を離るるなり。若し彼岸と此岸と異なると見るは、此の人の心、已に禅定無し。
    『悟性論』


中国の宋代には広く読まれ、日本の禅宗にも一定の影響を与えた『悟性論』である。実際には、達磨大師の著作とは認められないという。さておき、ここでいわれている内容は、先に挙げた此岸と彼岸との対立を否定していることが分かる。そして、引用文の最後にある通り、その対立の否定とは、禅定の力なのである。その意味で、『悟性論』に於ける禅定は、対立する事項の否定に懸かっていることが分かる。

その上で、智慧として、此岸・彼岸の対立が無い、或いは彼岸のみの世界であり、如来は慈悲を興して、その世界に生きるあらゆる衆生を済度する、という話になるようだ。

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