此の外又多くの譬へ此の品に有り。其の中に如渡得船とあり。
此の譬への意は、生死の大海には爾前の経は或は筏、或は小船也。生死の此岸より彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸トツキカタシ。
例せば世間の小船等カ筑紫より板東に至り、鎌倉ヨリイノ嶋ナムトヘトツケトモ唐土へ至らず。唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無き也。
日蓮聖人『薬王品得意抄』
これは、日蓮聖人の教えである。拙僧的に興味を引いたのは、「如渡得船(渡りに船を得たるが如く)」という言い回しである。日蓮聖人は、この一句が『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」に出ていることを指摘している。今の日本語にも「渡りに船」という諺があるけれども、出典は『妙法蓮華経』だったのだろうか?ちょっとよく分からないが、同経に出ていることは明らかである。
此の経は能く大に一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者に満つるが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に燈を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復是の如し。能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう。
『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」
つまり、「渡りに船」というのは、『法華経』が人々の為になることを示す譬えとして用いられた一句であることが分かる。それで、日蓮聖人の解釈には、いわゆる「法華経最勝」の信念が込められている。それはつまり、この「渡りに船」について、『法華経』より以前に、世尊が説いた経典(天台宗やその影響を受けた日蓮宗では、『法華経』を釈尊最後期の教えと見なしつつ、そこに釈尊の真意が込められたと主張する)は、所詮は海を渡るには不安な、いかだや小船でしかなく、『法華経』は大船だと言いたいわけである。
その様子を示す言葉としては、小船と大船の航行距離の違いを挙げている。小船は、筑紫(九州)から板東(関東)にまで来ることができるかもしれないが、中国にまでは行けないとする。しかし、大型の唐船であれば日本から中国にまで行くことが出来る、それほどの違いがあるという。その違いとしては、「生死の此岸から彼岸」にまで行けるか、それとも「極楽の彼岸」にまで辿り着けるかという違いにまでなるという。
なるほど、分かりやすいし面白い喩えだ。
個人的には、「彼岸」に、極楽とそうではないという違いがあることに強い興味を覚えたりする。まさか、阿弥陀仏のところに行くことを指しているのではあるまいな?
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