多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日。
だそうだ。それで、例年は仏教界の中に於ける敬老精神などを発掘してお伝えしてきたが、1回、貝原益軒の『養生訓』の一章である「養老」から記事を紹介したいと思っていた。残念ながら、単純な「敬老」とはいかないのだが、その内に拙僧自身にも訪れるであろう「養老」について、事前に考えを定めておきたい。
今の世で、老いてから子に養われる人は、若い時に比べてかえって怒ることが多く、欲も深くなって、子を責めたり、人を咎めたりして、晩節を保たず、心を乱す人が多い。
(よって)慎んで、怒りと欲とをこらえ、晩節を保ち、物事に堪忍を深くして、子の不孝を責めず、常に楽しみながら、人生の残年を送るべきである。これは老後の境界に相応ずることなのだから、良いのである。
孔子は、年老いて血気が衰えてきた時には、何かを得ようとすること(=執着心)を戒められた(『論語』「季子第十六」)。聖人の言葉は恐るべきである。
世俗には、若い時には大変に慎む人がいる。老後はかえって多欲で、怒りや怨みが多く、晩節を失う人が多い。慎むべきである。
子としてはこのことを思い、父母の怒りが起こらないように、かねがね慮って、恐れ多く慎むべきである。父母を怒らせるのは、子の大不孝である。
また、子として、我が身が不孝であることを親に咎められ、(その経緯を他人に話し)かえって親が於いて耄碌した様子を告げてしまう。これも大不孝である。不孝にして父母を恨むのは、悪人の習いである。
貝原益軒・石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫、159頁、拙僧ヘタレ訳
色々と思うところがある一節だが、最近話題の「キレる老人」は、別に今に始まったことでは無く、江戸時代初期から中期にかけても同じ状況だと分かる。それどころか、途中で引用されている孔子の文言(孔子自身も「君子には」ということで、更なる情報の遡源を求めることが出来る)については、「三戒」といって、3つの戒めの1つである。人が歳を重ねると執着心が強くなることを戒めている。
それで、この一節について、貝原益軒という人は、自分で自分をコントロールできるということを信じて疑わなかった人だから、この上記の教えが出来ると思っていたのだろう。だが、途中で益軒自身が、若い頃は慎んでいたのに、晩年はそれが効かなくなる人がいることを述べる通り、歳を重ねるということは、やはり、何かが出来なくなることを指しており、その中に「怒り恨む」事も入っていると思う。
よって、拙僧的には、益軒の結論とは正反対だ。無論、益軒はどこまでいっても儒学者であるから、父母の側に負担を掛ける子供がいれば、上記のような「不孝」という話にもなっていくのだろうが、高齢者が晩節に自分の慎みが効かなくなることは、或る意味道理であるから、子供の側でどれほどに慮っても限界がある。また、江戸時代と比べて明らかに日本人の寿命が延びた。益軒のようなやり方で巧くいく道理も無い。
そう思うと、益軒が言うように、慎みが巧く行く人は良いとして、それが行かないのが常であろう。そうなると、儒教的倫理を振りかざしても社会が巧く行かない。よって、それなりの対処法を子供の側はすべきだという結論にしておきたい。
なお、『養生訓』は、決して難しい文章ではないので、是非、老いを自覚した人は、同書第8章「養老」だけでもご覧いただくことをお勧めしたい。
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