(※元禄)同八年乙亥 師十四歳の冬、坂木(※原文ママ)大英寺戒梵孝和尚の結制、師、受業師の命を受て、往て会にあづかる、彼師は始行脚の時に宇治俵(※原文ママ、一般的には「田原」)禅定寺に往て月舟和尚に参随す、帰て住職の後も平日行業純一にして、諸人のために帰仰せらる、此故に遠近多く菩薩戒の弟子あり、ほとんど信州菩薩戒の中興とも謂べきなり、
『宝寿大梅老和尚年譜』、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻
こちらの年譜は、大梅法撰禅師(1682~1757)のもので、この方の法系としては了庵派となり、その語録や年譜が残っていることで知られる。また、各種仮名法語集に収録される『大梅和尚法語』はこの人のものだとされている。それで、『宝寿大梅老和尚年譜』自体、非常に多くの示唆を受けるので、学ぶ機会を得たいのだが、ここでは戒梵義孝禅師について学んでみたい。なお、坂木大英寺とは、現在の長野県埴科郡坂城町大字坂城に所在する曹洞宗寺院のことである。
まず、拙僧の拙い調査の結果ではあるので、申し訳ないのだが、戒梵和尚の法系は判明しなかった。上記の通り行脚の過程で宇治禅定寺に到り、月舟宗胡禅師に参じたという。そのため、月舟禅師が再興した禅戒会(授戒会)を熱心に修行されており、それが、「諸人のために帰仰せらる、此故に遠近多く菩薩戒の弟子あり、ほとんど信州菩薩戒の中興とも謂べきなり」という評価に繋がっている。
そこで、大梅禅師は出家後、この大英寺で戒梵和尚へ参じたのであった。それは、以下の目的があったためだと考えられる。
同九年丙子 師十五歳、正月因に義孝和尚授菩薩戒会あり、師幸に衆人ともに戒を受く、
前掲同著
先の一節の翌年のことだが、正月に「授菩薩戒会」が行われ、その際に戒梵和尚から大梅禅師は授戒(菩薩戒授与)をされたのであった。おそらくは、『血脈』も受けられたことであろう。
さて、大梅禅師には『宝寿大梅和尚語録』が残され(今では『曹洞宗全書』「語録四」巻で容易に閲覧可能)、その中には「授戒満散上堂」も収録されている(実施時期は、元文2年[1737]の春で、場所は越後善福寺とのこと)。詳細はまた、別の記事で論じてみたいところであるが、いわゆる「菩薩戒」の功徳を余すところなく説かれた、非常に優れた上堂である。それから、『大梅和尚法語』だが、こちらは公案参究と、同時代の禅僧達の逸話を語ることに終始しており、特段戒に関する話は出ていない。
そういえば、大梅禅師といえば、かの慈雲尊者飲光が参じた師の一人としても知られている。
寛保元辛酉年、飲光、法楽寺を以て法弟松林に附す.八月十八日なり。九月六日発足して、信州大梅禅師に参ず。
同二壬戌年、飲光、信州正安寺に在り。八月十一日、祖母了ずる故に終る。
『慈雲大和上御自筆略履歴』、『慈雲尊者全集』第17輯「雑編(下)」巻、25頁
後代の伝記類の中には、寛保元~3年まで参じたという人もいるし、一制中のみだったという人もいるのだが、上記の慈雲尊者自筆の記録からすれば、寛保元年冬、寛保2年夏の2安居だったのだろう。そして、2年の8月には祖母の病が酷くなったので、ここで信州での参学は止めて、法楽寺に帰られた。この辺、慈雲尊者御自身は以下のように述べておられる。
二十五の時に初めて穏当になつた、其時は信州に居たが,信州の大梅和尚とは、見処が大に齟齬した〈中略〉信濃は寒国で堪え難いに依て、上州か野州か美濃路あたりで山居して、木や石と共に朽てしまふと思ふた、彼是住処を聞きつらふ時に、大坂の又助殿から書状で申越さるゝには、老母が大病なり又祖母も大病で、殊の外此方が遠方に居ることを憂ひなさるゝゆへ、早々帰へる様にとあるを見て、先づ一度帰つて、祖母の心も老母の心も安んじたいと思い帰つた。
「明和三年七月晦日布薩後於吉祥殿示衆云」、『慈雲大和上法語集』巻下、206~207頁
そもそも、信州の大梅和尚とは見処が異なっており、更には信濃の土地は慈雲尊者には合わなかったようで、祖母や母のことを想い、帰ってしまったのである。よって、先の通り、2安居と見るのが正しいのであろう(何故か、大梅禅師の会下にいたのは3年だったという記録がとても多いので、もしかしたら他の記載があるのかもしれないが、御自身の記録を見ると以上の通り)。ただ、大梅和尚について、慈雲尊者はその遷化を悼み、「洞上の有識宝寿大梅禅師没後三七日忌辰拈香」の法語を唱え、法要を営まれたことが記録されているから、当然にその参究は何かしらの得処をもたらしたのだろう。
結局、戒梵和尚について考えたかったのだが、話は大梅禅師を中心にしてしまった。とはいえ、慈雲尊者との関わりも見ることが出来、この辺は記事を書いた意味があったかと思う。
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