つらつら日暮らし

『雑阿含経』に見える二百五十戒

以下の一節を見ておきたい。

爾の時、世尊、諸もろの比丘に告ぐ、「二百五十戒を過れば、次の半月の来るに随って波羅提木叉修多羅を説き、彼をして自ら学を求むる者は学び、三学を説いて、能く諸戒を摂せしむべし。何等をか三と為すや、謂わく、増上戒学、増上意学、増上慧学なり」。
    『雑阿含経』巻29


ここ最近、仏典の中に「二百五十戒」という字句が出ることが気になっている。これはもちろん、『四分律』系で説かれる比丘戒ということになるのだが、どうも、「二百五十戒」という数え方自体が、比丘戒全体を指す言葉だったのかもしれない、等と思うようになった。もちろん、その仏典を、『四分律』を伝えた法蔵部系で伝えたものだとか、そういう知識もあるのかもしれないが、当方はその辺、専門外なので能く分からない。

そこで、上記一節は、実はこの一節しかない、極めて短い経典である。

内容は、世尊が比丘に伝えることとして、二百五十戒の中で、誤ることがあれば、次の半月が来た時に、波羅提木叉修多羅(戒経)を説いて、学びたいと願う者には戒定慧の三学を説いて、戒全体を能く摂取させるべきだという。

つまりは、布薩について説いたものだとはすぐに分かるのだが、その戒への学びに収まることなく、禅定・智慧についても教えるべきだとされている。

何故、戒学だけではなくて、三学を説くべきなのか?この一節は、本当にこれだけしかないので、世尊の真意を探ることは難しい。しかし、上記一節の次には、別の経典の扱いではあるが、以下の教えが見られた。

何等をか増上戒学と為すや、謂わく、比丘、戒を重ねて、戒増上せざれば、定、重ならず、定、増上せず。慧、重ならず、慧、増上せず。
    同上


要するに、増上戒学というのは、正しく戒を学ぶことによって、禅定・智慧が重なるように、学人に会得されているということになる。その土台としての、戒学の学びが基本なのである。よって、戒については、誤ることがあればその内容の確認をすべきだとし、それが半月ごとの布薩になったのである。

なお、二百五十戒というのは、分かりやすくいえば僧侶らしい生き方を行う作法のことである。後は、教団が持続的に運営されるような、様々な気遣いが具現化した教えの体系である。一方で、日本では僧侶批判を行う際に、持戒か破戒か?を問うようになっているが、これも果たして良いのかどうか、戒律を学んでみると大きな疑問となってくる。

持戒・持律については、どこまでも生活法であって、また、そこには正否ではなく、持続性も混入させる必要がある。その綱引きの中で、持戒や布薩を考える必要があるといえよう。

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