つらつら日暮らし

「声聞戒」という表現について

大乗仏教が菩薩という理想的な修行者を前面に押し出すと、それまでの一般的な修行者を声聞として位置付けた。それに伴い、戒律についても、「菩薩戒」という表現や思想的体系が打ち出される一方で、従来の戒を「声聞戒」と呼称した・・・はずなのだが、個人的にどの辺が最も古いのか気になった。

もちろん、一般的には大乗『大般涅槃経』での、菩薩戒と声聞戒との対比が知られていると思う。

 戒に復た二有り、
  一には声聞戒、
  二には菩薩戒。
 初発心より、乃至、阿耨多羅三藐三菩提を得成す、是れを菩薩戒と名づく。
 若しくは白骨を観る、乃至、阿羅漢果を証得す、是れを声聞戒と名づく。
 若しくは声聞戒を受持すること有る者は、当に知るべし是の人、仏性及び以て如来を見ず。
 若しくは菩薩戒を受持すること有る者は、当に知るべし是の人、阿耨多羅三藐三菩提を得て、能く仏性・如来・涅槃を見る。
    『大般涅槃経』巻28「師子吼菩薩品第十一之二」


これなどが、非常に分かりやすい対比だと思う。要するに、菩薩戒を得れば、菩提や仏性、如来や涅槃を見ることが出来るが、声聞戒はそれが出来ないとしている。更には、菩薩戒は初発心から阿耨菩提を得るまで護持されるものだが、声聞戒は白骨を見る(つまりは死去する)か、阿羅漢果を得るまで護持されるとしている。その意味で、阿耨菩提は生生世世という観点が出て来るし、声聞戒はこの一回の人生で、ということになる。

まずはこのような対比についてご理解いただけたかと思う。

 復た次に舎利弗よ、菩薩は二法を成就して、願をして仏刹を厳浄して退かしめず。
 何等をか二と為すや。
 いわゆる、菩薩、
  声聞地を楽わず、
  声聞乗を求めず、
  声聞乗処を説くことを愛楽せず、
  声聞乗者に親近せず、
  声聞戒を学ばず、
  共に声聞乗相応の法を宣説することを楽わず、
  亦、
  他に声聞乗を行ずることを勧めず、
 縁覚乗に於いても亦復た是の如し。
 唯だ仏法の為に衆生の最上阿耨多羅三藐三菩提を成就することを勧発するのみ。是れを二と為すと名づく。
    『大宝積経』巻59「文殊師利授記会第十五之二」


以上の通り『大宝積経』も、菩薩は声聞戒を学ぶべきではないという立場である。余りに声聞乗が嫌われすぎていて、大丈夫かな?という気持ちにもなってくる。それで、『大宝積経』は訳出が菩提流支なので、まぁ、時代は北魏となる。そうなると、曇無讖訳となる『大般涅槃経』の方が古いわけで、訳出年代などからは「声聞戒」という言葉の古さを確定するのは難しいのかもしれない。

というか、大乗仏教経典の成立年代を、もう一回おさらいしないと記事を書けないことに気付いた。よって、これは勉強し直して続編を書きたいと思う。

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