略ぼ菩薩戒を失うに二事有り。
一つには菩提の願を捨つ、
二つには悪心を増上す。
是の二事を除けば、若し此の身を捨てても戒、終に失わず。是れ従り以後、生生の処に常に此の戒有り。若し憶念せずとも、更に善友に遇うて而も更に受くる者、新得と名づけず。
『優婆塞五戒威儀経』、訓読は拙僧
確かに、この2つは問題だ。菩薩戒どころか、そもそも菩薩として生きること自体が不可能となる事態であろう。要するに、菩薩の誓願を捨てたり、悪心を増長させたりすれば、菩薩戒を失うとしているのである。転じて、この2つのこと以外であれば、喩えこの人生で死して、この身を失っても、必ず生まれ変わり死に代わりする果てに於いてまで、常に菩薩戒が具わり続ける。本人がそれを覚えていなくても、善き友にあって更に受けることになるという。しかも、その時には「新得」とは呼ばない。
この一節を見て、拙僧自身も縁を得て、菩薩戒を受けることが出来たが、もしかしたら前生でも受けていたのかもしれない、と思うようになった。大変にありがたいことである。
さて、それでは、菩薩戒を失う条件についてだが、まず誓願を捨てるというのは大問題である。我々は、例えば「四弘誓願」に見るように、「衆生無辺誓願度」を基調として、宗教者としての生命を保持している。それなのに、それを捨ててしまえば、菩薩の生命は失われる。当然、菩薩戒を保持していくことも出来ない。
それから、菩薩戒に於ける「悪心」の問題は、『梵網経』を見ていくと、幾つかの文脈を得ることが出来る。
而も菩薩、悪心・瞋心を以て、乃至一銭一針一草をも施さず・・・
『梵網経』「第八不慳法財戒」
これは十重禁戒だが、以下、「四十八軽戒」にも、「菩薩、悪心を以ての故に」等として、その行為を戒める文脈が11条も存在している。つまり、菩薩にとって、菩薩戒の護持の際に注意されるべきは、悪心の増長なのである。そもそも、菩薩とは人々にとって、常なる「善友」である。それが悪意を持って衆生に接することは出来ない。
よって、先ほどの経典に於いて、これら2つを要因として菩薩戒を失うとしたのは、至極真っ当である。また、ここには出ていないが、菩薩による、二乗への堕落もまた、菩薩戒を失うように思う。そういうことを書いている文献はあるのだろうか?もし、見付けたらまた記事にしてみたい。
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