第三十祖僧璨大師は、何許の人か知らざるなり。初め白衣を以て二祖に謁し、既に度を受け法を伝う。舒州の皖公山に隠れ、属して後、周の武帝、仏法を破滅す。
師、太湖県司空山に往来し、無常処に居ながら十余載を積む。時の人、能く知る者無し。隋の開皇十二年壬子歳に至り、沙弥道信有り、年始十四なり。
来たりて師を礼して曰わく、願わくは和尚、慈悲、乞うらくは解脱の法門を与えよ。
師曰わく、誰か汝を縛るや。
曰わく、人の縛るもの無し。
師曰わく、何を更に解脱を求めんや。
信、言下に於いて大悟し、九載服労す。
『景徳伝灯録』巻3
これは、中国禅宗三祖(インドの初祖・摩訶迦葉尊者から数えると三十祖)となる鑑智僧璨禅師についての記載である。そこで、上記の通り、「周の武帝の破仏」に遭遇したことを述べている。よって、この一事について、年代的な問題などを検討しておきたいと思う。まず、関係者の生没年を挙げておきたい。
・僧璨禅師 ?~606年
・周の武帝 543~578年
・道信禅師 580~651年
それで、この「周の武帝」は今回の記事の通り、破仏(廃仏)をしたことで知られるが、中国で起きた四大破仏の通称「三武一宗の破仏」の2番目の人である。実際には、事前に儒仏道の三教について、様々な施策などは行いつつも、建徳3年(573)に徴税対策とか色々と目的はあったようだが、破仏を断行している。
ところで、『景徳伝灯録』の本文を見ていると、「舒州の皖公山」にいた時に、破仏に遭ったかのような印象を得てしまうが、実際はどうだったのだろうか。色々と研究もあるようだが、そもそも舒州は北周の支配地域では無い(南朝の陳の支配地域)ように思われる。そうなると、元々北周国内にいたが、武帝の破仏があったので、ここに逃れたと見るのが自然だろうか。
また、更に同じ地域の太湖県司空山にいながら10年以上が過ぎ、隋の開皇12年(593)に後の禅宗四祖となる道信禅師が弟子となったとある。この辺は事実を淡々と書いただけかもしれないが、一方で、破仏を行った武帝と、その後、北周から禅譲されて隋を建国した文帝(541~604)は、仏教の復興者という位置付けもされるので、破仏からの復興としての新たな祖師の出現を印象付けているのかな?等とも思ってしまった。
実際、この頃の禅宗はまだ、組織化されている印象が無く、やはり影響するのは後の唐の武宗による「会昌の破仏」以降だと思われるのだが、そうなると、先に挙げたリンク先でも少し考えたので、そちらの記事に譲りたい。
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