初心鬧乱、未だ回換することを免れず。所以に多方渠を教えて静観せしむ。
端坐し神を収め、初則ち紛紜して久久なれば恬淡なり。
六門を虚閑すれば、六門稍や歇す。
中に於いて分別す、分別、纔かに生ずれば、已に起滅を成す、起滅、転変し、自心より現ず。
還た自心を用いて反観一遍す。一反不再、円光頂戴し、霊焔騰輝して、心心無礙、橫ままに該竪に入る。
『緇門警訓』巻上
まず、この文章は、仏道修行の初心者から、徐々に坐禅に慣れて境涯が深まる様子を示している。つまり、初心者は心が混乱することを改めることが出来ないので、その者を指導し、静かに観察させるという。
そして、端座し、外に向かいがちな心の働きを内に収めれば、最初は混乱していても、久しい時間の間に、徐々に落ち着いてくるという。
続けて、我々自身の感覚器官を虚とすれば、その感覚器官の働きは休む。ここまでは、心の動きを止めることを目的とした修行である。
一方で、その後は、その止めた心の働きを、自由自在に動かしていくための方法なのだと思われるが、まずは、分別を起こすと、それによって「起滅」を知ることが出来るという。一方で、その起滅の働きが全て、自心から起きたものだと会得される。
そこで、自心を用いて、その起滅を反観すれば、円かな働きを頂戴し、そして、霊妙な炎が輝くようにすれば、全ての心が妨げなく、ほしいままに働くという。
おそらくは、虚を通して普遍を獲得(ただし、一般的な得る様子とは違う)し、その上で自在の働きを得るというのは、普遍の上の分別になるのだろう。
この文章の末尾は、明日見ていきたいと思う。