東大寺の戒壇和尚だった律師の明祐は、一生身心を慎んで、完璧に戒律を守っていた。毎晩、堂に参じて自室である房舎では休まなかった。そして、命が終わるまで念仏が止むことがなかった。天徳5年(961)2月18日に入滅された。
その日の1・2日前あたりから、大変に悩みがあって、食事もままならなかった。
弟子などが「1日、何もお召し上がりになっておられないようです。お粥など如何でしょうか」と勧めた。
明祐は「昼の食事の時間はすでに過ぎてしまった。命が終わることも近いであろう。何故その機会を破るべきことがあろうか」と言い、そして重ねて弟子達に命じて「2月は東大寺でいつも修行している仏事がある。私は無駄に生きてこれを過ぎ去ることが出来ようか」と言われた。
弟子達が17日の夕方に、『阿弥陀経』を誦し、回向し終わってから、明祐が「前のように、音楽を奏でるのだ」といわれた。しかし、弟子達は「音楽など奏でておりません。何かお間違いですか」と答えた。
明祐は「我が精神も意識も間違いを犯してはいない。前に音楽があったことを陳べただけなのだ」といわれ、明くる日この世から旅立った。
『日本思想大系』「往生伝・法華験記」22~23頁、拙僧ヘタレ訳
色々と説明していく中から、この説話を読み解いてみたいと思いますが、まず戒壇和尚についてでございます。これは、戒壇院を取り仕切る役僧で、特に戒律について学んでいた者のようです。したがって、大変に能く自分自身を律しておられました。そして、そのような善行の全てを費やして往生しようとされているわけです。『観無量寿経』には三種類の衆生が浄土の中でももっとも良い場所に生まれる(上品上生)とされていますが、その三つの冒頭に戒律に関する説示があります。「一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す」というものですが、今回の明祐もこれに当たるでしょう。
しかし、その明祐も徐々に寿命が近付いてきたようで、或る日、食事が喉を通らなくなったとされています。そして、2月に東大寺で行われる「修二月法会」がありますけれども、これは毎年2月に1日~27日まで行われる、いわゆる「お水取り」なんですが、明祐は、この法会が終わるまで生きるつもりはないといったわけです。この2月中に確実に入滅することを理解していたのでしょう。
そこで、2月17日に、おそらくいつものように『阿弥陀経』などを弟子達が詠んで、それで一日が終わるはずだったわけですが、明祐が突然に「前のように、音楽を奏でるのだ」と告げるわけです。しかし、弟子達は誰もそんな音楽なんて奏でていないわけです。だから、弟子達は「何かの間違いではないですか」と問われるわけです。確かに、他の誰にも聞こえないのなら、この音楽は空耳なのかな?という感じもします。しかし、明祐にはその音楽がハッキリと聞こえていました。
そして、それこそが往生決定の証しだったわけです。明祐は翌日に入滅し往生されています。現在にさかんに流布されている浄土真宗さんのような往生観などとは一線を画する日本古来の往生観ですが、このような往生や、それが決定するイメージが当初は必要だったのでしょう。これは、まさに時代的・社会的要請というべきであり、どちらが優れているというようなことはいえないかもしれません。
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