ところで、世間では「きんろう」と読むところ、呉音読みが多い仏教用語の場合、恐らくは「ごんろう」と発音される。そして、世間に於ける勤労ではなく、仏教的な勤労だと、以下の通りとなる。
論じて曰く、諸無漏道、是れ沙門の性なり、此の道を懐く者、名づけて沙門と曰う、能く勤労を以て煩悩を息むが故に。
契経の説の如きは、能く勤労するを以て種種の悪不善法を除く、広説して乃至、故に沙門と名づく。
異生は能く究竟じて涅槃に趣くこと異なることの無いことあらざるが故に、真の沙門に非ず。
『阿毘達磨倶舎論』巻24「分別賢聖品第六之三」
以上である。要するに、「論じて曰く」とある通り、最初の部分は註釈だが、煩悩の無い様子こそが、沙門の本質であるといい、その煩悩の無い様子を懐いて生きることを沙門としている。それは、勤労することで煩悩を止めるからである。つまり、ここでは「煩悩を止める」ような修行を、勤労だとしていることが分かる。結局は、自らの業として勤め、沙門としての振る舞いに契うことを、沙門だとしていることになる。沙門とはこの意味で、行為的存在である。
同じように、上記一節では、「契経の説の如」くとある通りで、これは経典を引用しつつの教示だが、勤労することで、種々の悪・不善法を除くことを沙門だとしている。つまりは、諸悪莫作・衆善奉行という当たり前のことを勤労することが、沙門だとしているのである。
一方で、結局他の生き方では、涅槃に趣くことが無いからこそ、沙門とは呼ばないとしている。それは正しい勤労がなされないからである。
ところで、上記はあくまでも声聞としての沙門であるから、自己自身の修学を説くのみである。大乗仏教であれば、その正しき勤労を一切の衆生に回向することだろう。とはいえ、大乗経典にはここで採り上げたくなるような「勤労」が見られない。『倶舎論』は玄奘三蔵訳だとされるので、『大般若経』などに出ても良さそうなものだが、「勤労」は世間に於ける仕事を意味する言葉のようである。そして、或る王が家臣の勤労をねぎらい、宝物を贈る場面なども出ているのだが、その程度であった。
あ、でも、今日の「勤労感謝の日」に際しては、その方が良かったのだろうか?
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事