つらつら日暮らし

『遺教経』を読誦してみよう

以前も申し上げたが、曹洞宗では釈尊涅槃会に臨んで2月1日から14日まで『遺教経』の読誦を行うように『行持軌範』で定められている。

ところで、『遺教経』は、詳しく『仏垂般涅槃略説教誡経』というが、以前、この「垂」の意味とは?とか思ったのである。岩波文庫の得能文氏訳注『仏説四十二章経・仏遺教経』には以下のように書いてある。

仏遺教経 亦、仏、涅槃に垂んで略して説ける教誡経と名づく。
    43頁


「垂」は「のぞんで」と訓読されている。それで、漢和辞典なども見てみたら「なんなんとして」という意味などもある。よって、仏が般涅槃になんなんとして略して説かれた教誡を集めた経典となる。これで、「垂」の謎は解けた。そして、せっかくなので『遺教経』の一節を採り上げて、勉強したい。

汝等比丘、我が滅後に於いて、当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、これは則ち是れ汝等が大師なり。もし我、世に住するともこれに異なること無けん。

世尊が、弟子達に対して、自分が涅槃に入った後でも、「波羅提木叉」を尊重すべきであるとしている。この語の意味は、それぞれの解脱のことであり、煩悩について解脱を得ることであり、そのために修行者が守る戒律の条文のことである。比丘や比丘尼が守るべき戒本であり、出家するときに受け、その後守り続けるべき戒律の根本条文である。これを守って修行し、迷いの世界を離れる。この辺は、パーリ仏典の『大般涅槃経』にも同じように示される。

アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。
    中村元博士訳、岩波文庫本、155頁


若干『遺教経』の方が装飾的表現が多いが、内容は同じである。解脱の元となる教えを今後は師と思いなさいという遺教である。よって、我々自身も師から戒を受け、或いは成仏していただけるように、亡くなった人を相手にも、戒と戒名を授与している。よって、安易に死後の名前だと思うのも勝手だが、自分で付けようとしたりとかされるのは、如何なものか?とも思う。

良く、「自分らしい葬儀」とか「自分らしい死に方」とかいう人もいるが、「死」或いは「死者を送る儀礼」には「自分らしさ」など不要であろう。むしろ、成仏とは、自己を捨てるべきで、それを学ぶために戒や法を師とする必要があるから、世俗的価値観を戒名などにもたらすというのは、大いなる勘違いだともいえる。

まずは落ち着いて、それこそこういう時期だから、『遺教経』から仏教に入ってみても良いかもしれない。内容を理解する前に、まずは読誦してみてはどうだろうか。

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