真実、彼の岸に達せんには、必ず菩薩の大行に依らねばならぬ。菩薩の大行といへば、中々容易ならぬ事なれど、約めて見れば六波羅蜜に帰する。波羅蜜は彼岸到と訳する。彼の岸に到達する所の行であるから、斯く名けたるものぢや。実際に生死の海、煩悩の海を渡る所の行であるから、六度とも称する。乃ち六通りの行持ぢや。六通りとは、知ての通り、布施と持戒と忍辱と精進と禅定と智慧との六つぢや。
『永平悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年
森田禅師の御垂示はこの後、「六波羅蜜」の具体的内容をお示しになるけれども、それは省略する。実際に、かなり長く、それはそれで、別途「六波羅蜜」を参究する際に検討した方が良い。さて、ここでいわれていることとは、「菩薩の大行」ということである。例えば道元禅師は晩年の説法にて、「諸仏諸祖が菩提心を発して、大行を勤修している」(取意)というような教えを遺しておられるけれども、まさしくこのことである。
例えば、天台宗の『釈禅波羅蜜次第法門』巻八などでは、声聞の大行は「四諦」であり、縁覚の大行は「十二縁起」であり、菩薩の大行を「六波羅蜜」としている。いわば、各々の機根に於いてなすべき行、それの最も大事な行ということとなる。
そこで、森田禅師は、「波羅蜜」というあり方を「彼岸到」として、彼岸に到達する行であるとしている。それは、繰り返し述べているように、生死・煩悩の海を渡り、彼岸に到達しうる行である。そして、六波羅蜜の各々の大切さを説いている。無論、その全てを行い尽くすのはとても難しいことだ。だけれども、六波羅蜜とはそれを並行的に行うというよりも、この場合は、布施行に他の五波羅蜜が含まれるという考え方もある。
布施とは、出家・在家ともに行うことが可能な修行である。
布施の本質とは喜捨であり、自ら所有していると思い込んでいる物品や金銭、或いは知識などに執着せず、喜んで手放すことである。その手放しを元に、我々は自分自身の執着心をも手放していく。その意味で、布施とはただ、その場限りの修行では無くて、自らの心の有り様を変える修行である。それも、ただ想いの中で変えていくのではなくて、実際に喜捨を行うという「行」の中で変えていく。
だからこそ、より、仏道に近付いていくともいえる。良き実践なのである。布施と聞けば、お寺や坊さんへの金銭の「支払い」と思う人も多いと聞く。しかし、それは、布施本来の目的である「喜捨」の精神に反している。拙僧つらつら鑑みるに、現代の日本は本当に末法だと思う。それは、真の喜捨を行える人が少ないからだ。こういう風にいうと、「真の坊主がいないことの法が問題だ」という反論を行う人がいるかもしれないが、僧侶の善し悪しと、喜捨の成否とは関係がない。それについては、既に拙ブログで繰り返し述べていることなので省略し、今年度の彼岸会の記事を終える。
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