そこで、早速本文を見ていきたい。
第十五 台浄両家の円頓戒に同異あり勝劣ある事
古徳の曰く、台家の戒と浄家の戒と同ずる義あるべし、異する義あるべし。
同ずと云は、
一には名目同、両宗共に円頓戒と称するなり、
二には緩急同、浄家の戒は天台疏に準じて緩漫なるが故なり、
三には通軌同、両宗共に同く仏弟子の通法度なる故なり〈已上、三同〉、
次に台家の戒と異なることは、
一には円観の有無なり、台家にては円解円観を修して此戒を持つなり。浄家は爾らず、弥陀の本願に託するが故に、円解円観の力は仮らず、是故に元祖大師処々の解釈に、円解円観を勧め給へる文なし、是を以て講釈のときは格別、今は円理を高く談ずるには及ばず、宗門の円戒には少しも入用なきが故なり、
二には期心格別なり、台家の意は、此戒の力に依て、定を発し慧を発し惑を談じて此土入聖せんと期す。浄家の意は、断惑証理此土入聖を期するに非ず、偏に往生浄土を期するなり、
三には助業となるに差別あり、台家戒は十乗観の助業となる、二十五方便の中に持戒清浄といへる是なり。浄家の戒は念仏の助業となる、選択の中に異類の助業といへる是なり、
四には弘通に異あり、台家にては、台教を弘通せんが為に、此戒を持つなり。浄家にては、念仏を弘通せんが為に此戒を持なり〈已上、四異〉、
若しくは此を論ずれば、略是の如くなるべし、又台家・浄家の円戒に於て、略して勝劣を論ぜず、古徳の曰く、台家の戒は自力の円戒なるが故に、難解難入有教無人なり。浄家の円戒は他力の円戒なるが故に、行易易修頓悟頓入なり、惑障を断ぜざるが故に易行なり、横超横截の故に頓入なり〈以上、大原の意〉、是の如く比挍すれば、勝劣天淵なり、知るべし。
『浄土宗円頓戒玄談』「第十五 台浄両家の円頓戒に同異あり勝劣ある事」項、訓読は当方、漢字は現在通用のものとし、カナをかなにするなど見易く改める
内容からすれば、「同異」と「勝劣」について論じているが、まず同異については「三同・四異」を論じている。そして、「勝劣」については、ほとんど論じられていないが、ただ、「古徳の曰く」として、「台家の戒は自力の円戒なるが故に、難解難入有教無人なり。浄家の円戒は他力の円戒なるが故に、行易易修頓悟頓入なり」を採り上げ、ここから、円戒受持の結果の難易を区別し、更に浄土門の円戒を「易行・頓入」という特長を見ることで、それを勝劣の根拠にしているのだろう(上記文章は、少し分からないようにしているが、実は、とても巧みな文章である。要するに、浄土宗の人は「易行・頓入」に価値を置いているから、上記文章は浄土宗の円頓戒が勝れていることになるが、もし、それらに価値を置かない人なら、天台宗の方が良いということにもなる。つまり、勝劣の実際は、読み手に任せているのである。
さて、ここで見ておきたいのはやはり「同異の異」であろう。実際、そちらの意図が無ければ、この文章は書かれていないはずなのである。そこで、論点は4つあるけれども、結局は両方の宗派の宗旨に基づいた違いを挙げているので、ここが気になるが、浄土宗側の特徴は「円解円観を行わない」ということである。これは、「円頓の意」を敢えて理解したり、その観法を用いたりしないということである。これは、往生に寄与しないためである。
2つは、往生の期と、持戒の心のあり方が違うことである。天台の場合は、持戒によって、定慧を発して断惑し、往生に至ろうとするとしているが、浄土の場合は、断惑と往生とが一致しないとし、あくまでも往生のみを期するという。
3つは、助業としての位置付けが違うという。天台では二十五方便の1つだとしているが、浄土では念仏の助業だとしている。
4つは、弘通の違いだが、これは何を弘めるための持戒か?ということだが、天台教学と念仏という違いがある。
ということで、いわゆる「円頓戒」という意味付けが曖昧になっている印象を得た。これは、元々の天台宗での位置付けがどうなっていたのか?そして、その影響を受けたはずの浄土宗ではどうだったのか?という気持ちが出てくる。これは、『浄土宗円頓戒玄談』を読んでいくと学べるようなので、その辺も検討してみたい。
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