凡そ僧尼等身死なば、三綱月別に国司に経れよ。年毎に朝集使に附けて、官に申せ。其の京内は、僧綱季別に玄蕃に経れよ。亦た年の終わりに官に申せ。
『令義解』12丁表を参照、原漢文
これは、各寺院に所属する僧侶が亡くなった場合、どのように国・官に対して報告するかが問われている。それで、この1条は、『令義解』の解説が何も挿入されていないので、『日本思想大系』の補註などを参照しながら、理解してみたい。
まず、各地方にあった寺院についての規定となる。寺内の僧尼がもし死去すれば、三綱といって、各寺院の指導者が、毎月に国司に伝えなくてはならないという。そして、国司は毎年、「朝集使」に、過去帳みたいなものでも渡したのだろうか?どちらにしても、それで名前は京都に集められた。
この「朝集使」というのは、地方政治の様子を中央政府へ報告するための使者であり、他の場合も併せて「四度使」といった。特に「朝集使」とは、国司が自らが治める地域の年間の政治や、部下の勤務評定、或いは僧尼の死亡などを記した「朝集帳」を、太政官に提出するため、送られたという。
そして、この制度は、「朝集帳」の作成自体が、国司側ではなくて、朝廷から派遣された役人によって行われるようになると、この使者も機能しなくなったようだが、その頃は、既に律令制度自体が混沌としていたであろうし、上記に挙げた『僧尼令』を知る上での参考にはならないかもしれない。
それから、京内というのは、京都のことだが、こちらの場合は、僧綱が各季節ごとに、玄蕃寮(寺院・僧尼、外国公使接待などを司る役所)に報告したようである。そして、玄蕃寮から、治部省(五位以上の官人の継嗣・婚姻、祥瑞・喪葬・国忌のこと、外国使臣の接待などを司る)へ年の終わりに報告するものとなっている。
つまり、僧侶の数を知るための名簿は、律令制度の時代から整備されていたということなのだろう。
【参考資料】
・井上・関・土田・青木各氏校注『日本思想大系3 律令』岩波書店・1976年
・『令義解』巻2・塙保己一校(全10巻)寛政12年(1800)本
・釈雲照補注『僧尼令』森江佐七・1882年
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