つらつら日暮らし

恵心僧都源信の『阿弥陀観心集』

『大日本仏教全書』の24巻には、天台宗に関する文献が多数収められているのですが、中でも、1巻として独立させるほどではないにせよ、小部で貴重な著作が『天台小部集釈』として収録されています。実は、そこに収録されている良源『草木発心修行成仏記』を見たくて探していた時に、ついでに源信の『阿弥陀観心集』を読んでみたら面白かったので、ブログの記事にしてみようと思います。

 阿[=梵字]は即空の義なり。
 弥は随縁十界、また即仮の義なり。常に百界に順う。
 陀は即中の義なり。中道なり、則ち法身なる故に、云々。
 十界の衆生、皆、阿弥陀仏と名づくと言うなり。
 法身の阿弥陀は、本覚如来にして究竟の心なり。
 報身の阿弥陀は、即ち自他受用の修因感果の色身なり。
 応身の阿弥陀は、即ち極楽世界、阿弥陀仏即ち勝応身・劣応身なり。
 この三仏は自化身なり。ともに体、ともに用は常住不変なり。
 菩提心は一切法の如く、皆是れ仏なり。一切法は即ち十界なり。仍って一界は仏法を知らずに浄土に往生せざる云々、と。
 業菩提心は一切法皆是れ仏法と知る。この心、即ち浄土業なり。
 理観十念は、決定往生の業なり。
 現在理観の十念は、法界を繋縁して、中道に非ざる無し。生死即ち涅槃なり。
 阿字を念ずる時、即ち四十二品の無明同体の見思の煩悩滅し、報身の仏と成るなり。
 弥字を念ずる時、即ち四十二重の塵沙煩悩、三土の悪業滅し、応身の仏と成るなり。
 陀字を念ずる時、即ち四十二位の根本煩悩、二死の業障滅し、法身の仏と成るなり。
 陀の名号を観じて、体用の阿字無き故に、諸法空寂なり。弥字の量の故に万像なり。
 この三諦中に一切法を摂むるなり。


非常に観念論的な阿弥陀仏への鑽仰がされている一文でございます。多分に、「本覚」「究竟心」といった表現、そして「常住不変」などが見えますから、本覚思想が大いに流行した院政期辺りまで下がる文献で、源信のものでは無いのかもしれませんが、その辺の判断は、拙僧には難しいので、あくまでそういう見方があるという情報を提示して終えておきます。

さて、この内容でありますけれども、阿・弥・陀という3文字について、それぞれ様々な解釈法を示しています。まずは、天台智が唱えたという、空・仮・中の三諦に準えています。阿は空、弥は仮、陀は中といった具合です。なんとなくですが、阿については、否定形に付く語だと聞いていますから、「無」ということであり、その意味では、空という発想も可能かもしれません。また、弥や陀については、それぞれ仮と中と準えているのですが、これは本当に正しいのだろうか?拙僧にはよく分かりません。

また、阿弥陀仏というのは法報応の三身を具えた存在のようです。この辺も、なかなか理解に苦しむところですが、いわゆる普通応身というと、この世界に現じた釈尊を考えてしまうところですが、この場合ですと、法身が本覚如来で、報身が修因感果の肉体を持った阿弥陀仏、そして、応身が極楽世界そのものであり、その教主として説法する阿弥陀仏だということになるのでしょう。

文字を念じることで、そこから多くの意義を取り出していくという営みについては、非常に気になるところです。いわゆる修行ということよりも、端的に言語観として気になるところですが、サンスクリット語、中国語と「翻訳」を繰り返してきたが故に、その「歴史的伝統」を重ねられてきた日本に於ける祖師だからこそ可能なのかもしれません。また、三諦を使って阿弥陀仏を解釈するという事態は、これまた天台宗の教学を受けた上でのものになります。天台宗の止観には、事象を三諦にして会得する方法がありますから、それを使っているのでしょう。

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