まず、この語句については中国禅宗六祖慧能禅師(638~713)に由来すると思われる。
韶州刺史韋拠請し、大梵寺に於いて妙法輪を転じ、并びに無相心地戒を受く。門人紀録し目けて壇経と為し、盛んに世に行わる。
『景徳伝灯録』巻5「曹渓慧能禅師章」
ここに、「無相心地戒」という表現が見えており、一方で、「心地無相戒」は無い。よって、古い表現は「無相心地戒」であったことが分かる。しかし、一般的に見られる『六祖壇経』を確認すると、慧能禅師は先に挙げた用語は勿論のこと、「心地戒」「無相戒」ともども用いていない。慧能禅師の言葉としては、「心地無非自性戒」としているくらいだが、これは、あくまでも「心地」が「自性戒」としての功徳があると示しているだけである。そして、契嵩(1007~1072)による「六祖大師法宝壇経賛」には3箇所ほど「無相戒」という表現が見られた。また、日本では『諸回向清規』巻4で「梵網心地戒」という表現も見えるが、それは後述するように元々同経の品名「盧舍那仏説菩薩心地戒品第十巻」に由来する。
そこで、「無相心地戒」は『景徳伝灯録』の記述の影響は大きく、その後も同語を用いる場合には、『景徳伝灯録』を引いていることが確認された。
さて、一方で「心地無相戒」だが、中国の仏典には直接の同語は確認されなかった。しかし、明代以降の『梵網経』註釈書の中には、『梵網経』中の「心地相相」という用語を註釈して、「心地相相とは、元と心地無相なり。而も戒に持犯有り、即ち心地の相なり」(弘賛述『梵網経菩薩心地品下略疏』巻8)などとしている。
それで、拙僧自身が「心地無相戒」を使う理由は、宗典の関係であったことが分かった。
又坐禅は、戒定慧に干かるに非ず、而して此の三学を兼ねる。謂わく戒は、是れ防非止悪、坐禅は挙体無二と観ず、万事を抛下して、諸縁を休息して、仏法世法を管せず、道情世情双べ忘じて、是非無く善悪無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。定は是、観想無余なり。
瑩山紹瑾禅師『坐禅用心記』
このように、瑩山禅師は「心地無相戒」と用いている。一応、先に挙げた明代以降の『梵網経』註釈書よりも、成立自体は古いが、本書は伝播や流行に問題があるので、判断は難しい。ただし、拙僧自身が「心地無相戒」を用いるのは、本書の影響があってこそ、である。
以上から、以下の3つの見解を得た。
①六祖慧能禅師は「心地無相戒」も「無相心地戒」も使っていない。
②後代の評価として、契嵩の「無相戒」や『景徳伝灯録』の「無相心地戒」が登場。
③日本曹洞宗の瑩山禅師が『坐禅用心記』で「心地無相戒」を使用。
他にもあるかもしれないが、簡単な結論である。そういえば、この「心地無相戒」について、曹洞宗内ではどう註釈されているのだろうか?
則ち都て一相無相に帰すと雖も、習学の初め事義分別に依らざること無し。
指月慧印禅師『坐禅用心記不能語』
結局、全ての「一相」が「無相」に帰することによって、無相戒が際立つといえる。そうなると、心地戒よりも無相戒の方が重要だといえる。指月禅師は「心地無相戒」と、『坐禅用心記』の文脈からそれを判断されたのだろう。もしかすると、この語は曹洞宗独自のものかもしれない。
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