太上天皇、先ず大和上を請して、親対して菩薩の浄戒を受くるなり。仍って和上を拝して、釈門大僧正と為す。其れ法進沙門を律師と為すなり。
仍って即ち和上の旅疲を済わんと欲して、奈良城右京五条二坊内、新田部親王家四箇町地并びに房舎、及び備前国の水田一百町を以て、以て永く大和上に施与し、用って宿院及び供料と為す。則ち堂舎を餝造して、号して招提と称し、仏像・経教を安置し、無遮の供を設けて、以て十方衆僧を資供し、用って来際の壇場と期するものなり。
東大・招提二寺を餝造して、戒を授くること間無し。
宝字二年中、更に別勅有りて大和上の号を加え、天下の僧尼に詔して、皆、大和上に帰して、戒法を習学するなり。
爾自り以来、僧・二百五十戒、尼・五百戒を以て、此の土の出家の類に授与し、仏法を住持し、国家を鎮護す。
然る後、彼の授戒の儀式、至ること今時迄、数年を経て、尚お一道と為し、別異無きなり。
漸く惟るに、和上の住持、当に仏意の趣に契い、小より大に入る。大唐・日本の二朝に於いて、其の流法唯一なるのみ。亦更に別岐無し。
沙門豊安『戒律伝来記』巻上、『日本大蔵経』「律部二」巻・456頁下段~457頁上段、原漢文
本書は唐招提寺の豊安沙門が天長7年(830)に著したものである。本来は全3巻であったが、上巻のみの現存とされる。文中の太上天皇とは、聖武天皇のことである。聖武天皇が、鑑真和上を請して、親しく菩薩戒を受けられ、それに因んで「大僧正」を与えられたという。また、鑑真和上が連れてきた法進沙門を律師にし、その後、東大寺での授戒は法進律師が執り行うようになる。
一方で、ここでは「旅の疲れを癒やす」ことを目的に、鑑真和上に対しては新たな滞在所を作ることとなった。それが、後の「唐招提寺」である。しかし、本書では「招提」とのみ呼称している。この呼称について、以下の指摘がある。
招提〈訳に云く、四方なり。招とは、此に云く四、提とは此に云く方なり。謂わく四方僧なり。一に云く、招提とは、訛なり。正言なれば柘闘提奢なり、此に云く四方なり。訳人、闘を去り奢を去り、柘復た誤りて招と作す。柘を以てすれば招と相似たり、遂に斯の誤り有るなり〉。
『一切経音義』巻64「大比丘三千威儀」巻上項、原漢文
このように、「招提」とは「四方」という意味であるらしく、特に「四方僧伽」のことであるともいう。つまり、「招提」とは四方から僧侶が集まる場所、普通に考えれば寺院ということになると思うのだが、本書でも、鑑真和上のために宿院や、供養料などを用意し、建物には仏像や経典なども安置していたという。また、無遮の供養(施される者を限定しない供養)を行うことで、十方の衆僧のための場所となり、よって、この招提が未来までも「壇場(戒壇場、授戒の場)」として機能することを願っていたことになる。
そして、東大寺と招提の二寺をもって、授戒が行われていたが、特に、鑑真和上については、大和上の号を与えたという。これは後にいうところの大和尚と同じで、一部の文献では、この時のことを元に、日本でも「大和尚」が作られたともする。そして、鑑真和上によって授戒の儀式が伝えられたことによって、日本と中国との作法が同じくなったのである。
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