・題(華頂法親王表随喜題)
・序(華頂山大僧正迎誉識)文政10年(1827)春2月
・浄宗半月布薩式畧法(式次第)
・極畧式心念法
・附文(十三条)
・刊記(権僧都定舜謹識)天保2年(1831)夏6月
以上の通りで、本書は文政10年には編集されていたようだが、開版されたのは天保2年だったようである。そこで、今回は「序」を学んでみたいと思う。
浄宗半月布薩式畧法序
半月説戒は大小律家の通制にして而も戒を養う所以の法なり。
特に梵網を専らにする者は、乃ち在家に至るまで務めずんばあるべからざるなり。然るに澆季は薄俗にして僧尚ほ戒を受持せざる輩有り。亦た受随の儀を知ると雖も、而も布薩を行ふ意ろ無き者の、頗る衆し。
嘗て之を勧誘せんと欲するも果たせず、偶たま二三子語て曰く、彼の畧法を印刷して諸れを邇遐に布かば、則ち可ならんか。
老僧点頭して曰く、二三子はまた、我が助くる者に非ずや。
『浄宗半月布薩式畧法』版本・序2丁表~裏、原本に従って訓読
まず、本書について、「半月説戒は大小律家の通制にして」とある通り、この場合の「布薩」は「半月ごとに行われる説戒」のことを指している。実は、浄土宗の場合、「布薩式」というと、独自の念戒一致の宗旨を指す場合があるのだが、本書はそうではなく、通常の布薩である。そのため、大小乗の律学に於いて、通制として行われていると、明言しているのである。
それから更に、「戒を養う所以の法」としているのも頷ける。つまり、説戒とは、持戒を保つための方法であるから、「戒を養う」と表現されたのである。
また、続く「梵網を専らにする者」とあるのは、『梵網経』に基づく菩薩戒を受持する者という意味であり、その場合は出家も在家も問わず、「半月説戒」を行うべきだという。実際に、『梵網経』巻下には、以下のようにある。
仏、諸菩薩に告げて言く「我、今、半月半月に、自ら諸仏の法戒を誦す。汝等、一切の発心の菩薩もまた誦す。乃至、十発趣・十長養・十金剛・十地の諸菩薩もまた誦す。是の故に戒光口より出ず。縁有って因無きに非ず〈以下略〉」。
「半月半月に、自ら諸仏の法戒を誦す」の部分が、いわゆる「半月説戒」に該当する。また、その際には、聞いている菩薩たちも共に唱えるべきだということも理解出来よう。
ただし、澆季(末法)では、出家の僧侶であっても戒を受持せず、また、受戒の儀礼などは知っていても、布薩を行わない者が多いとしているのである。
よって、かつて、これを皆に勧めたが誰も応じようとしなかったが、最近、わずかだが、『布薩式畧法』を印刷して世に弘めれば良いのでは無いか?という意見があったので、それに同意して、今回の印刷に至った、と書かれているのである。
ここから、江戸時代末期に持戒や布薩が形骸化しつつある状況で、それを打破せんとして行われた開版だったと理解出来よう。その内容は、次の記事から見ていきたい。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事