大法師の頼暹は、九州太宰府安楽寺の学問を司る僧(=学頭)であった。
元々世間にいた頃から、管弦を好んでいたため、ここで楽曲を作ってみた。その詞は「帰命頂礼弥陀尊、引接必ず垂れ給え」というものであった。この曲をもって、毎月十五日に、雅楽を演奏する楽人を5~6人招いて、講演としてきびしく勤めていた。そして、この講演を号して「往生講」としていたのである。頼暹は、専らこのことを営んで、ようやく多年に及ぶようになった。
死期に臨んで涙を流しながら言うには「天から音楽も聞こえず、部屋には素晴らしい香りも充満しない。往生を願っていたが、その本意とは違ってしまったようだ」と言って、声を挙げては再三にわたって嘆いたのだった。そして、いきなり三尺(=90㎝くらい)の阿弥陀仏を抱きしめると、そのまま入滅してしまわれた。
この時になって、その部屋に素晴らしい香りが起きたのであった。雲というのでも煙というのでもなく、曇っていながら晴れていた。
この時は、延久年間の大弐良基卿が太宰府の長官を務めていた頃(1071~1074)である。
『日本思想大系』「往生伝・法華験記」365頁、拙僧ヘタレ訳
頼暹法師はあまり行実は知られず、この記録による限りでは、太宰府の安楽寺(現在の天満宮のこと)で学問を司る役目をしていたようです。そして、出家する前から音楽、特に管弦の楽曲を好み、その頃に学んだことを活かして自ら阿弥陀仏を讃えるための音楽を作られたようです。そして、それを講演することを特別な法要とすることで、往生するための機縁にしたようであります。
さて、この頼暹法師が行った往生講については、天台宗の真源が行った『順次往生講式』の関連も考察されています。この真源のは、頼暹法師よりも後代の12世紀に作られたものだとされており、十一段からなる講で、各段毎に極楽浄土を讃嘆しながら、舞楽や催馬楽の曲を付した歌謡を歌うとされています。
そして、頼暹法師はこの往生講を長年にわたって勤められたようなのです。ですから、おそらく自分は往生できると確信しておられたのではないかと思うのですが、死期を悟っても、往生の際に発現するということが何も起きなかったようで、それを嘆いて、自分のやっていたことが無駄だったのではないかと考えました。
そこで、いてもたってもいられなくなり、本人が亡くなる際に、仏像の阿弥陀仏にしがみついてこれまで果たされなかった往生の確信を確固たるものにしようとしています。結果、どうやらその願いが届き、阿弥陀仏の来迎が行われたようです。拙僧的に気になったのは、せっかく音楽をもって供養していた人なのに、天の楽曲が聞こえず香りだけだったのが不思議ということですが、今さら音楽を流しても・・・ということだったのかもしれません。
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tenjin95
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