それにしても、この『護国経』の末尾に気になる一節があるので、見ておきたい。
爾の時、倶盧大王、尊者の伽陀を説くを聞き已りて、歓喜信受して、復た白して言わく、「護国尊者、能善く出離す、是の故に、我れ今、尊者に帰依す」。
護国告げて言わく、「大王、我に帰依すること勿れ、我れの帰依する所、是れ仏世尊及び法、僧衆なり。王、当に帰依すべし」。
王言わく、「是の如し是の如し、我れ今、仏・法・僧衆に帰依し、形の尽きるまで優婆塞戒を受持す」。
是の時、大王、誓願を作し已りて、尊者を礼奉して、還た王宮に復る。
『護国経』
大王が、護国尊者が称えた偈頌(伽陀)を聞くと、非常に高い境涯を持っていることを知り、尊者自身に帰依しようとした。ところが、護国尊者は「大王よ、私に帰依をしてはならない。私が帰依しているのは、仏法僧の三宝である。大王もまた、三宝に帰依すべきである」と諭したのである。
そのため、大王は改めて三宝に帰依し、その生涯の間、優婆塞戒(在家五戒)を持つと誓ったのであった。
ここで重要なのは、尊者個人への崇拝などが否定されていることである。あくまでも、尊者は「僧衆」の一員であるから、僧衆全体への帰依は認められても、個人へは帰依すべきでは無いのである。
これは、現代だからこそ重視すべきである。つまり、仏教の僧侶は、あくまでも仏教界全体の魅力や帰依者の向上に努めるべきであって、個人的な信仰を得ることを願ってはならないのである。それは、端的に「貪名愛利」と呼ばれ、歴代の仏祖が批判したことであった。
個人への帰依を説いて良いのは、仏陀本人のみである。しかも、仏陀個人というより、仏陀であるという事実そのものが帰依の対象となる。後代の者は、あくまでも僧衆の一人として、仏陀を仰ぎつつ、自分個人への帰依を否定し続けなければならないのである。そして、これこそが、仏教をカルト化から遠ざける最大の善性であるといえる。
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