つらつら日暮らし

一丈玄長禅師『禅戒問答』に見る随方毘尼

江戸時代中期の学僧・一丈玄長禅師(1693~1753)の戒論は、宗派内に於ける独自性などから注目されるべきであるが、『律』の基本を学んだ人という評価は間違っていないように思う。

行脚の僧、路費を帯、夜禅の僧、薬石を用るが如きは、律制に背に似たりといへども、元と法の為に開するが故に、全く破戒なるべからず。只だ宜しく慚愧を知るべきなり。
    『禅戒問答』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・303頁下段


これは何を意味しているかといえば、江戸時代の曹洞宗侶は、夏冬二安居の間は一寺院に留まるが、それ以外の時には基本行脚をして、全国各地を旅していた。そして、僧侶といえど、旅費を要するためそれを持ち歩いているわけだが、それは個人的な財産を持つことを禁止した律制に背くというのである。

また、薬石とは中世の日本禅宗でも採用された、夜の軽い食事のことを指す。本来、出家者の食事は正午までと定められ、1日1回であった。しかし、禅宗寺院は日没後の修行時間が長大であるため、正式な食事だけでは持たないと判断されたのか、薬石が便宜的に導入された。

曹洞宗では、一応、以下のような伝承が知られている。

永平寺 今知事に告ぐ。自今已後、若し午後を過ぎて檀那飯を供せば、留めて翌日を待て。其の麺餅菓子、諸般粥等の如きは、晩なりと雖も猶お行ぜよ、乃ち仏祖会下の薬石なり。況んや大宋国の内、有道の勝躅なり。如来、曾て雪山僧の裹服衣を許す、当山も亦た雪時の薬石を許す矣。
    『示庫院文』奥書


これは、道元禅師が薬石を許したとされる文であるが、「雪山僧の裹服衣」のことも出ているように、これは随方毘尼である。裹服衣とは一種の防寒着のことであり、全身を包むように着られる袈裟のことであった。ところで、『示庫院文』自体の伝承はそれほど単純ではないが、永平寺ではかなり早い段階で薬石が許されていたと思われ、その影響を受けたであろう瑩山禅師も以下のように定めている。

当日、若しくは次日、晩間に薬石、之を行ず。
    『洞谷記』「陞座罷礼賀次第」


このように礼賀の日程次第では、薬石を行うように示したのである。この場合、単純に食欲に負けてというよりも、修行時間の問題があるため、敢えて食事を行ったと見るべきである。要は、一丈禅師がいうように、「法の為に開する」のである。この場合の「開」とは、戒律に於ける「開遮持犯」の「開」であり、許すことをいう。

ただし、一丈禅師は『律』の本来の意義を知り、法のためとはいえ違反しているのであれば、自らの行いに対して慚愧の念を持つべきだという。この辺の「心根」は大事にしなければならないのだろう。

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