つらつら日暮らし

巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)

拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。

乃正身端坐不得左側右傾前躬後仰要令耳与肩対鼻与臍対舌掛上腭脣歯相著目須常開 正身端坐は王三昧の巻に尽界を超越し仏祖裡に大尊貴生なることは結跏趺坐なり仏祖の極之極を越るは只だ此の一法なりと已上
仏言見画趺坐魔王驚怖すとあり、況や此の真箇の趺坐をや、又目須常開とは無用にして開を云なり、物を見て眼に用有ときは瞼上下するものなり、常に開とは生たまゝに開を云なり
    8丁表~裏


ここは、坐禅を行う際の上半身の作法を示した箇所だが、ほとんど提示は無いと言って良く、眼の開き方がある程度か。それよりも、「正身端坐」の意義について、『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻を挙げているのがポイントではある。何故ならば、それは面山禅師『聞解』と異なる註釈方針だからである。

驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり、外道・魔儻の頂𩕳を踏翻して、仏祖の堂奥に箇中人なることは、結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり。
    「三昧王三昧」巻


これが略して示されている。また、「見画跏趺坐、魔王亦驚怖」については「三昧王三昧」巻で引用され、本書では「仏言」とはされているが、典拠は『大智度論』巻7「初品中放光釈論第十四」を引いた荊渓湛然『止観輔行伝弘決』巻2だと思われる。

それから、「又目須常開とは無用にして開を云なり、物を見て眼に用有ときは瞼上下するものなり、常に開とは生たまゝに開を云なり」については、「目、須く常に開くべし」となるのだが、それを「無用にして開」としている。何故ならば、物の何かを見ようとするかは、瞼が上下するというが、これは確かにそうだ。そして、「常に開く」ためには、「生たまゝに開」けば良く、要するに余計な力を入れなければ、そうなるのである。

意外とサッパリした註釈ではあるが、作法はそのようなものかもしれない。言葉を尽くしても、自分で行ってみなくては分からないからである。

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