つらつら日暮らし

『大宝積経』巻90に見る「大破戒」について(3)

タイトルの一件について、一度文脈を見ておきたいと思っていたので、この記事で採り上げてみたい。たいがい、「声聞の持戒は……」を検討する場合、該当する文脈しか引かれないが、今回は全体を見直してみたら、ちょっと面白かったので、確認してみたい。なお、【(2)】の続きである。

 〈以上は前の記事〉云何が、菩薩の開遮戒を持し、声聞乗の人唯だ遮戒のみを持すると為すと名づくや。
 若し諸菩薩、大乗中に於いて修行を発趣して、
 日の初分の時、犯戒する所有れども、日の中分に於いて一切の智心を離れず、是の如くの菩薩の戒身、壊せず。
 若し日の中分に犯戒する所有れども、日の後分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。
 若し日の後分に犯戒する所有れども、夜の初分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。
 若し夜の初分に犯戒する所有れども、夜の中分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。
 若し夜の中分に犯戒する所有れども、夜の後分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。
 若し夜の後分に犯戒する所有れども、日の初分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。
 是の義を以ての故に、菩薩乗の人、開遮戒を持し、設い犯す所有れども応に失念すべからず。
 妄りに憂悔自悩、其の心に生じて、声聞乗に於いて犯す所有る者は、便ち声聞の浄戒を破壊すると為す。何を以ての故に、声聞の持戒、煩悩を断除するは、頭然を救うが如くす。志楽有る所、但だ涅槃を求むるのみ。是の義を以ての故に、声聞乗、唯だ遮戒のみを持すると名づく」と。
    『大宝積経』巻90「優波離会第二十四」


さて、本経の特徴として、菩薩戒については「開遮」の両面が認められ、声聞戒については「遮戒」のみを認めるという主張を行っているのだが、何故その違いになるのかを、菩薩の立場から説明を試みている。

そこで、上記内容を具に見ていくと、菩薩は大乗中に於いて修行を行うのだが、それは衆生を救うことを第一に考えている。そうなると、一日の中のどこかで戒を犯したとしても、その次の時間に於いても「智心(智慧の心)」を離れることが無ければ、菩薩による戒身(戒を守る菩薩の身体)は壊れることが無いというのである。

その結果、菩薩乗の菩薩は開遮戒を持ち、もし、衆生を救うために戒を犯したとしても、智慧を失念することが無いとしているのである。

一方で、悩みなどが起きて声聞乗の声聞が戒を犯すことがあれば、声聞の浄戒は壊れるとしているのである。何故ならば、声聞の持戒とは、煩悩を断除するために行うものであって、ただ涅槃に入ることのみを願っている。そうなると、自らの煩悩を抑えることが肝心であって、他の衆生を救うために破戒する余地が無いのである。

よって、このような違いから、声聞の持戒は菩薩の破戒となるし、転じて、菩薩の持戒は声聞の破戒になるのである。

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