人は常に、浄頗璃の鏡に、日夜の振る舞いが映ることを思うべきである。
これは、隠れた場所であれば、心中に潜に思うことであれば、他人に知られないなどと思ってはならない。
曇り隠れなく、彼の鏡に映るのである。恥ずべきことである。
岩波文庫『明恵上人集』206頁、拙僧ヘタレ訳
これはつまり、明恵上人が人が生きる場合には、浄頗璃の鏡に自分の生き方が常に記録されていることを思えと述べておられます。浄頗璃の鏡とは、曇りのない鏡であり、我々の行いを一切全て分け隔てなく記録してしまうのです。我々は常に、自分を良く見せようとします。無論、拙僧もその1人です。しかし、だからこそ、悪いことをしても、自分の記憶を枉げてでも、無かったことにしようとします。それは許されることではありません。その許されなさを、仏教では「浄頗璃の鏡」に託して語っているのです。
また、人は、人前でだけ良い子ぶろうとします。おそらく、この記事を読んでいる人の多くも、1人でパソコンなどで見ている場合が多いと思いますが、その状況は如何でしょう?とんでもなく汚い部屋などにいたりはしませんか?自分しかいないから、誰にも見られていないから、と我々はそういうプライバシーを覗く他者の存在を忘れることによって、無視することによって、自由が成立すると思っています。しかし、それは自由ではありません。ただの奔放というだけです。そして、この奔放さという、自制の効かない生き方によって、我々は悪事を重ねていくのです。
昔の人は、そのような時にでも、「浄頗璃の鏡」という監視者を置くことにより、生前により良く生きようと努力しました。我々は、この点を忘れてはならないと思います。
次に二院有り。
一を光明王院と名づけ、二を善名称院と名づく。
光明王院、中殿裏に於いて大鏡台有って光明王鏡を懸く。浄頗梨鏡と名づく。昔、無遮の因に依って一大王鏡を感ず。閻魔法王、此の王鏡に向かって自心の事、三世の諸法、情・非情の事を鑑るに、皆悉く照らす。然も復、八方に囲むに、方毎に業鏡を懸く。一切衆生の共業増上の鏡なり。時に閻魔王、同生神の簿と人頭の見とをもて亡人を策髮し、右繞して見せしむ。即ち鏡の中に於いて前生に作す所の善福悪業を現ず。一切の諸業、各おの形像を現すること、猶お対せず人の面・眼・耳を見るが如し。
『地蔵十王経』「第五 閻魔王宮」
これは、「浄頗璃の鏡」の出典になります。大乗経典でも、比較的後期(中国成立の偽経という評もある)に成立した地蔵菩薩について説く『地蔵十王経』に、詳しく説かれています。この鏡は、光明王院というところにあって、無遮大会を行った功徳によって、この鏡を得、閻魔王は、この鏡に向かって、自分の心のことや、三世の諸法などを鑑みると、それをことごとく映し出したというのです。
このことから、我々の生前の行いの善悪が記録され、判断されて、結果来世の転生の場所などが決められる、という話に繋がっていくわけです。そこまでいうと、こういう監視者から逃れたいと思う人が、色々と屁理屈をいうかもしれません。「善悪」は時代や場所によって違うから、安易に決めるべきではないとかいう話です。
無論、この場合基準になるのは、ブッダが定めた「律」ではなくて、『大智度論』で「旧戒」という普遍的な戒とされる「十善戒」だといえましょう。十善戒は、我々の身口意の三業に、10の項目を割り振って、その良き行いを積むことにより、功徳を増長するように示しています。よって、やはり小難しいことはいわず、人としてダメなものはダメ、という理解でよろしいのです。もし、犯してしまったなら、素直に反省すれば良いのであって、そこで、自分に具わるプライドだとか、そういう下らない何かを守ろうとするから、ますます罪を犯すのです。
「浄頗璃の鏡」の教えは、その意味で、素直に生きることを求めるための自制装置であるといえますね。
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