つらつら日暮らし

鬼の害を免れた『法華経』の行者(私的法華驗記17)

様々な信仰の様子が見られる『法華経』ですが、今日もまた、その1つを紹介したいと思います。くどく、前置きの文章を並べるのもアレですから、とっとと訳文を見ていきましょう。

 但馬国(現在の兵庫県北部)に、一軒の山寺があった。建立されてから、100年以上が経っていた。鬼神が来て住んでいたため久しく人は住まなかった。
 二人の旅の僧がいた。そのような事情を知らずに、この寺に来て泊まっていた。一人は、年が若い『法華経』の持経者であり、一人は年老いた修行者であった。それぞれ、(寺の)東西にあった長い床にいた。すると、夜半に及んで、壁に穴を開けて入ってくる者がいた。その臭いはとても臭く、口臭は牛のようであった。鼻から、息を吹いて打ち砕くのだった。
 持経者は、大きな恐怖を抱いて、一心に『法華経』を唱えていた。鬼は、この僧を無視して、老いた僧の下に行き、この者を掴み割いて食べてしまった。老いた僧は、声を上げ大声で叫んだが、誰も助けてくれる者はいなかった。持経者の沙門は、逃げて隠れることも出来ず、嘆き悲しんで、仏壇の上に昇り、仏像の中に混じって、1つの仏の腰を抱いて、今日を唱え念仏して、死から逃れる方法を求めていた。
 鬼は、老いた僧を食べ終わって、持経者の居場所を探していた。沙門は一心に『法華経』を念じていたら、鬼は仏壇の前に倒れ崩れた。その後は、鬼は来なかった。沙門は、いよいよ仏の腰を抱いて『法華経』を唱えて、夜が早く明けるように待っていた。夜が明けて見てみると、抱いていた仏は毘沙門天であった。
 仏壇の前を見れば、牛頭鬼が3つに斬り殺されていた。毘沙門天が持っている鋒剣に赤い血糊が付いていた。
 明らかに知ったのであるが、『法華経』の持経者を助けるために、多聞天(毘沙門天?)が牛頭鬼を殺し抑えていたこと。
 沙門は、里に出て示すと、多くの人が寺に集まってきて、このようなことを見て「珍しいことだ」と称えていた。
 その毘沙門天は、その国の刺す史が、大いに敬って、請い奉って(自らの)本尊とした。持経者は、一乗の力によって、とんでもない難を逃れたのであった。さらに、ますます『法華経』を読誦して、生まれ変わり生まれ変わりしても、その教えと逢えるように誓願したのであった。
    『大日本国法華経験記』第57、岩波日本思想体系『往生伝・法華験記』124~125頁、拙僧ヘタレ訳


まさに、『耳無し芳一』にも匹敵するかのような怪談でございます。なお、この『大日本国法華経験記』には、同様に『法華経』の持経者が、様々な難を逃れた説話が数個示されており、これもその1つであろうと思われます。なお、この岩波日本思想体系の注釈者は、この物語を「架空の話」だと断じていますけれども、そんなに簡単に断定して良いのかな?という感じがします。もちろん、安易に事実であると述べたいのでもないのですが、この物語を描かせた、ソースがあるだろうと思うわけです。

その意味で、今回の話は、一人は年を取ったベテランの仏教者、今一人が若いけれども『法華経』の持経者であり、この両者は、鬼が住むお寺に泊まってしまったということになります。そして、ベテランは鬼に殺され、若い方は『法華経』の功徳によって助かったという話が示されています。長年の修行も、『法華経』には契わないということなのでしょう。

さらに、鬼についても、ただ『法華経』に祈るだけで、四天王がこの鬼を殺してしまったというのです。どうしても「四天王」というと、『金光明経』に書かれている一品が気になるのですが、同じ護国経典の『法華経』ですから、やはり我々を守ってくれるのでしょう。そういえば、確かに『観音経』には、次のような一節があります。

或いは悪しき羅刹、毒龍、諸の鬼等に遇わんに、彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢えて害ざらん。

このように、観音の力にすがれば、鬼などに出遭っても、害を受けないとされているわけです。今回の一件に、この観音の力が、どう作用したかは分かりませんが、観音というのは、「観音の妙なる智力は、能く世間の苦を救わん」ということになりますので、我々の側で、そこまで必死に頼まなくても、普段から『法華経』を崇めていれば、自ずと救ってくれるということになるのでしょう。

一応、拙僧どもも、『観音経』とか「如来寿量品偈」とかは、日常的に読誦していますけれども、それには、以上のような功徳があると知っておくと、さらに効果があるのかもしれません。

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 霞 さん

> なるほど、道元和尚は性別について比較的平等に考えていたのですね。親鸞聖人といい、いわゆる鎌倉新仏教とのちにいわれるような宗派は、比較的男女平等的な思想が強かった、と考えても差し支えないのでしょうか…。

確かに、こう考えても良いとは思います。なお、この傾向はさらに室町時代には強まりますが、江戸時代にはまた、男性優位になったと思われます。

> 世の中には、宗教家という肩書きをもっていても、教義を自分の都合のいいように解釈し、自己の鍛錬を忘れ、自分が偉くでもなったようなものいいで、他人と接する宗教家がたくさんいます。

そうですね。これは、拙僧自身も非常に気をつけていることです。一方で、様々な宗教や仏教を学ばずに、僧侶などを批判する人も多いので、そういう人たちには、断固として反論もしています。拙僧は、優しい言葉だけが、宗教者の言葉であるとは考えていません。厳しいことも申し上げます。

> だから、きちんとした宗教家の方と、こういうお話ができることを非常にうれしくおもいます。

拙僧もまだまだ学ぶ途中です。皆さんとともに学べれば、ありがたいと思い、こういうブログをしています。
 そのような中で、将来宗教家となるべく、使命をもった宗教家の師弟の方とも寝起きをともにした時期もありますが、結果として…
日々の、勤行、勉強もせずに、酒、バイト、不順な異性交遊にあけくれ、自分の欲望を優先させるために、他人を平気で犠牲にする、そんな連中がたくさんいました。
そして、未信者には、自分たちの宗教の価値観を押し付ける…
そんなことばかり、続いてしまったので、結果的にあたしはその宗教を決別せざるを得ませんでした。
 「こんな人格の持ち主でも宗教家として、人を導くことができるのだろうか? そもそも、人を導くための宗教家としての人格とは…」
なんて、自己のことをかえりみずに、偉そうに、考えるようになったのが、あたしが宗教について本当の意味で考えるようになったきっかけなのです。
 だから、きちんとした宗教家の方と、こういうお話ができることを非常にうれしくおもいます。
不躾な質問にもかかわらず、丁寧な回答をいただけましたことに、心より感謝いたします。
 なるほど、道元和尚は性別について比較的平等に考えていたのですね。親鸞聖人といい、いわゆる鎌倉新仏教とのちにいわれるような宗派は、比較的男女平等的な思想が強かった、と考えても差し支えないのでしょうか…。それはともかくとして、あたしが法師さまにさきのような見方によっては、失礼な質問をしてしまったのも、法師様がきちんとした宗教哲学を持ち、実践されている方だとおもったからです。
 世の中には、宗教家という肩書きをもっていても、教義を自分の都合のいいように解釈し、自己の鍛錬を忘れ、自分が偉くでもなったようなものいいで、他人と接する宗教家がたくさんいます。
 霞も、とある教派神道系宗教家の生まれうまれ、学部は宗教系の学部ではありませんでしたが、その宗教系の学校へも通いました。
tenjin95
皆さんコメントありがとうございます。
> 無門 さん

> 怪談ですね。しかし観音様の力で助かるのならありがたいですね。毎朝の勤行にも力が入ります。

是非、様々な祈りと共に、勤行されるとよろしいかと存じます。せっかく、お経を唱えるんですから、回向を考えてやった方が良いでしょうね。

> 霞 さん

> 『法華経』には、竜女が成仏して、仏国土に生まれ変わるという風な箇所があったとうる覚えですが、記憶しています。ですが、「変形男子」といわれるように、一度、男に生まれ変わってからなんですよね、女が仏国土に生まれ変われるのは…。

仰る通りです。「提婆達多品」に変成男子の語が出ています。

> また、女性に血の穢れがあるから、地の池地獄に落ちるということが「血盆経」に書いてあるようです。

そうですね。
これもまた事実です。

> 最近、宗教民俗学や宗教人類学の研究から、このような宗教と性差別に関する研究が進んでいます。今の仏教で、このようなことをといていたとしたら、さすがに時代錯誤になってしまうとおもいます。だから、さすがにこんなことを主張している仏教者はいないとおもいますが、一仏教者として、法師様はこのような日本仏教の歴史をどのようにお考えでしょうか。

拙僧としては、拙僧自身は曹洞宗の開祖である道元禅師の教えに従うべきだと思っておりますが、しかし、やはり「経典に書いてある」というのは、大きな影響を与えたと思います。事実として書いてある以上、或る意味「真面目な人」ほど、その経典の内容の実現に奔走し、今でいうところの、女性蔑視の態度をとられた方がおられたことでしょう。今でも、もしかするといるかもしれませんね。まぁ、曹洞宗では人権学習が進んでいますから、こういう差別的な思想を持った方は、いないものと願いたいところですが。

なお、拙僧も含めて、『正法眼蔵』を読んでいる者としては、特に「礼拝得髄」巻に道元禅師の女性観が書かれているので、そこで、いわば男女という性別が問題ではなく、修行の有無が問題であると理解がされていると思います。ですので、拙僧なども、いわゆる相手の方が女性だからどうだという考えを持ったことはありません。ただ、檀信徒の方であれば、お寺を向いていてくださるかどうか、だけで考えます。
宗教上のジェンダーバイアス
 仏教者である法師様に、こんなことをお伺いするのは非常にまた心苦しい感じがしないでもないのですが、前から疑問に思っていたことをひとつ。
 『法華経』には、竜女が成仏して、仏国土に生まれ変わるという風な箇所があったとうる覚えですが、記憶しています。
 ですが、「変形男子」といわれるように、一度、男に生まれ変わってからなんですよね、女が仏国土に生まれ変われるのは…。
 また、女性に血の穢れがあるから、地の池地獄に落ちるということが「血盆経」に書いてあるようです。
 最近、宗教民俗学や宗教人類学の研究から、このような宗教と性差別に関する研究が進んでいます。今の仏教で、このようなことをといていたとしたら、さすがに時代錯誤になってしまうとおもいます。だから、さすがにこんなことを主張している仏教者はいないとおもいますが、一仏教者として、法師様はこのような日本仏教の歴史をどのようにお考えでしょうか。
 別に、この場で過去の仏教で行われてきた性差別について弾劾しているわけではありませんが、一仏教者として現役で活躍しておられる方の見解に、興味があります。
 もし不快に思われるようでしたらもうしわけありませんでした。
無門
怪談ですね。しかし観音様の力で助かるのならありがたいですね。毎朝の勤行にも力が入ります。
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