但馬国(現在の兵庫県北部)に、一軒の山寺があった。建立されてから、100年以上が経っていた。鬼神が来て住んでいたため久しく人は住まなかった。
二人の旅の僧がいた。そのような事情を知らずに、この寺に来て泊まっていた。一人は、年が若い『法華経』の持経者であり、一人は年老いた修行者であった。それぞれ、(寺の)東西にあった長い床にいた。すると、夜半に及んで、壁に穴を開けて入ってくる者がいた。その臭いはとても臭く、口臭は牛のようであった。鼻から、息を吹いて打ち砕くのだった。
持経者は、大きな恐怖を抱いて、一心に『法華経』を唱えていた。鬼は、この僧を無視して、老いた僧の下に行き、この者を掴み割いて食べてしまった。老いた僧は、声を上げ大声で叫んだが、誰も助けてくれる者はいなかった。持経者の沙門は、逃げて隠れることも出来ず、嘆き悲しんで、仏壇の上に昇り、仏像の中に混じって、1つの仏の腰を抱いて、今日を唱え念仏して、死から逃れる方法を求めていた。
鬼は、老いた僧を食べ終わって、持経者の居場所を探していた。沙門は一心に『法華経』を念じていたら、鬼は仏壇の前に倒れ崩れた。その後は、鬼は来なかった。沙門は、いよいよ仏の腰を抱いて『法華経』を唱えて、夜が早く明けるように待っていた。夜が明けて見てみると、抱いていた仏は毘沙門天であった。
仏壇の前を見れば、牛頭鬼が3つに斬り殺されていた。毘沙門天が持っている鋒剣に赤い血糊が付いていた。
明らかに知ったのであるが、『法華経』の持経者を助けるために、多聞天(毘沙門天?)が牛頭鬼を殺し抑えていたこと。
沙門は、里に出て示すと、多くの人が寺に集まってきて、このようなことを見て「珍しいことだ」と称えていた。
その毘沙門天は、その国の刺す史が、大いに敬って、請い奉って(自らの)本尊とした。持経者は、一乗の力によって、とんでもない難を逃れたのであった。さらに、ますます『法華経』を読誦して、生まれ変わり生まれ変わりしても、その教えと逢えるように誓願したのであった。
『大日本国法華経験記』第57、岩波日本思想体系『往生伝・法華験記』124~125頁、拙僧ヘタレ訳
まさに、『耳無し芳一』にも匹敵するかのような怪談でございます。なお、この『大日本国法華経験記』には、同様に『法華経』の持経者が、様々な難を逃れた説話が数個示されており、これもその1つであろうと思われます。なお、この岩波日本思想体系の注釈者は、この物語を「架空の話」だと断じていますけれども、そんなに簡単に断定して良いのかな?という感じがします。もちろん、安易に事実であると述べたいのでもないのですが、この物語を描かせた、ソースがあるだろうと思うわけです。
その意味で、今回の話は、一人は年を取ったベテランの仏教者、今一人が若いけれども『法華経』の持経者であり、この両者は、鬼が住むお寺に泊まってしまったということになります。そして、ベテランは鬼に殺され、若い方は『法華経』の功徳によって助かったという話が示されています。長年の修行も、『法華経』には契わないということなのでしょう。
さらに、鬼についても、ただ『法華経』に祈るだけで、四天王がこの鬼を殺してしまったというのです。どうしても「四天王」というと、『金光明経』に書かれている一品が気になるのですが、同じ護国経典の『法華経』ですから、やはり我々を守ってくれるのでしょう。そういえば、確かに『観音経』には、次のような一節があります。
或いは悪しき羅刹、毒龍、諸の鬼等に遇わんに、彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢えて害ざらん。
このように、観音の力にすがれば、鬼などに出遭っても、害を受けないとされているわけです。今回の一件に、この観音の力が、どう作用したかは分かりませんが、観音というのは、「観音の妙なる智力は、能く世間の苦を救わん」ということになりますので、我々の側で、そこまで必死に頼まなくても、普段から『法華経』を崇めていれば、自ずと救ってくれるということになるのでしょう。
一応、拙僧どもも、『観音経』とか「如来寿量品偈」とかは、日常的に読誦していますけれども、それには、以上のような功徳があると知っておくと、さらに効果があるのかもしれません。
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