つらつら日暮らし

「上受具」について

以前、個人的に「善根上受具」という言葉に注目したことがあったのだが、その典拠になる『毘尼母経』を読んでみると、元々は「上受具」という概念があり、その細目の1つが「善根上受具」であることが分かる。つまり、善根を行う者が「上受具」であると言っているのだが、「上受具」自体が少し分かりにくい。

上受具とは、諸有漏を尽くして阿羅漢と成る。上沙弥の如きは、未だ二十に満たざれども、阿羅漢を得るが故に、名づけて上受具と為す。此れ比丘尼、亦復た是の如くなれば、是れを上受具と名づく。比丘尼、五種の受具し竟んぬ。
    『毘尼母経』巻1


つまり、「上受具」というのは、上質なる状況で具足戒を得たという意味であり、この場合は諸々の有漏(煩悩)を尽くして阿羅漢になることをいう。そのため、煩悩を尽くした者であれば、上受具となるため、例えばまだ二十歳にならずに比丘とならない沙弥や、比丘尼であっても「上受具」になるといっているのである。気になるのは、「上」ということは、「中」や「下」もあるのか?ということだが、簡単に調べてみても該当する概念は無いようだ。

よって、煩悩を破して阿羅漢と同じ境涯に達した者を、「上受具」とのみ読んでいるのであって、通常の受具と比較して成り立っているわけでは無いことが理解出来よう。

ところで、その受具と上受具との関係について、やはり『毘尼母経』では以下のように指摘している。

 能く比丘を成就するに、五種の受具有り。受具と名づくるは、何ものを五と為すや。
 一つには善来比丘して、即ち受具を得る。
 二つには三語して即ち受具を得る。
 三つには白四羯磨の受戒するを名づけて受具と為す。
 四つには仏勅して受具を聴し即ち受具を得る。
 五つには上受具なり。
 何故に名づけて上受具と為すや。
 仏の在世時、受戒せず、直ちに仏の辺に在りて聴法して阿羅漢を得れば、上受具と名づく。
 是れを比丘の五種の受具と名づく。
 比丘尼、亦た五種の受具有り。
 一つには師の教に随いて行けば名づけて受具と為す。
 二つには白四羯磨すれば受具を得る。
 三つには遣使の現前すれば、受具を得る。
 四つには善来して受具を得る。
 五つには上受具なり。
 能く一切の諸悪を作さざるを成就すれば、是れを受具と名づく。
    『毘尼母経』巻1


このように、本経典では比丘になった結果としての「受具」を、五種想定しており、その内容は他の論にも共通しているように思う(律によっては、十種を想定する場合もある)のだが、「上受具」というのは珍しいと思う。実際、「上受具」と「得阿羅漢」を関連させるのは、本経典を嚆矢とする印象もある。

そのため、「上受具」に関する説明が詳しいのだが、上記の通り、上受具について、「仏の在世時、受戒せず、直ちに仏の辺に在りて聴法して阿羅漢を得れば、上受具と名づく」とする通りで、受戒(比丘戒)していないのに、仏のそばで法を聴いていて、阿羅漢の悟りを得れば、それを「上受具」と名づけるという。実際に、釈尊の会下では、在家信者でありながら阿羅漢果を得た事例も存在しているので、そのような者を想定しているのだろう。

しかも、「上受具」としているということは、戒律を守る修行を経ていないのに、という速成的状況、或いは中国禅的な頓悟というべき結果を得ることを「上受具」としている可能性も見えてくる。また、比丘尼の境涯の高さを認め、しっかり比丘のカテゴリーに入れても良いという主張も見えてくる。本経に於ける比丘尼の成立条件も興味深いのだが、少し勉強しないと記事に書けなさそうなので、別の機会にしたい。

更に、冒頭で申し上げたように、「善法上受具(または善根上受具)」という、更なる細目を論じているのも、本経典の特徴であると思うのだが、それは「受具」の条件を緩和し、硬直した人材登用を改善しようとしていた可能性も見えてくるのだが、本経典自体の位置付けをよく学ばなければ得られない結論でもあると思うので、それはまた別の機会にしよう。

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