つらつら日暮らし

鉢盂を漆器として作る典拠について(1)

現在、日本の禅林で用いる鉢盂(応量器)は材料が木で、漆塗りになっていると思われる。だが、釈尊が律で、鉢盂として木器の使用を禁止したことはよく知られていると思う。

 諸もろの比丘、金・銀・七宝・牙・銅・石・木鉢を畜うること有り。
 諸もろの居士、譏呵して言わく、「此の諸もろの比丘、王の如し、大臣の如し。常に少欲知足を説くも、而今、此の好鉢を畜う」。
 諸もろの比丘、是を以て仏に白す。
 仏、是の事を以て比丘僧を集め、諸もろの比丘に告ぐ、「今より上の諸鉢を畜うることを聴さず。若し金・銀、乃至石鉢を畜うるは、皆な突吉羅なり。若し木鉢を畜うるは、偸蘭遮なり」。
    『五分律』巻26「第五分雑法」


上記の通り、比丘達の中に、様々な材質の鉢盂を蓄える者がいたのだが、それを在家信者から、「比丘達は、普段から“少欲知足”などと言っているが、多くの良い食器を持っている」と批判されたという。そのため、釈尊はそれ以降、比丘達に多くの鉢盂を蓄えてはならないとし、金や銀、石までの鉢盂は「突吉羅罪(微罪)」とし、木鉢は「偸蘭遮罪(未遂罪)」に当たるという。

意外と、そこまで重い罪ではないのだが、日常的なこととなるので、一般的にはその罪に当たる鉢盂を放棄することになることだろう。

それで、この木鉢をどうするか?なのだが、後の時代に以下のような話が出ている。

 三に体を明かす。
 律に云く、大要に二有り、泥及び鉄なり。
 五分律中、木鉢を用いれば偸蘭罪を犯す。
 僧祇に云く、是れ外道の標なるが故なり。又、垢膩を受く。
 故に祖師の云く、今世の中、夾紵漆油等の鉢有り。並びに是れ非法なり。義は、須らく之を毀す。
    霊芝元照『仏制比丘六物図』「鉢多羅第四物」項


以上の通り、木鉢について、先に挙げた『五分律』などを典拠にし、用いてはならないとしているのだが、合わせて「祖師の云く」として、「今世の中、夾紵漆油等の鉢有り。並びに是れ非法なり」としている。これは、中国で様々な製法の鉢盂があったことを指しているが、注目すべきは「漆油」である。これは、漆のことを指しているが、要するに漆器があったことを意味する

つまり、漆器が存在していることを認めつつも、それを「非法」だとしている。関連する指摘として、以下の一節も見ておきたい。

しばらく作麼生ならんかこれ鉢盂。おもはくは、祇是木頭にあらず、黒如漆にあらず、頑石ならんや、鉄漢ならんや。無底なり、無鼻孔なり。
    道元禅師『正法眼蔵』「家常」巻


ここで、鉢盂の材質や製法などに言及され、「木頭」でもなければ、「黒如漆」でもなく、石でも鉄でもないとしている。要するに、材質の問題に固執すべきでは無いことを論じておられる。ここから、中国宋代に於ける禅林でも、漆器を用いていた可能性について思うところがあるのだが、まだ漆器で良いという典拠を見出しているわけではない。

そうすると、この辺について、虎関師錬禅師『済北集』に関連する文章があることを知ったので、それはまた、後日採り上げてみたい。

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